REPORT
下西風澄トークイベント はじまりの哲学 〜制御する心から、上演する心へ〜 Vol.1

我々の生活の中で身近な存在になりつつある「人工知能」。
この人工知能を、一見するとそれとは遠い場所に位置する“哲学”という視点から考えてみました。ゲストにお招きしたのは哲学者の下西風澄氏。
物事の深淵と向き合う哲学者の目に、人類の叡智はどう映るのでしょうか。
前・後編の二部構成でお届けします。

人工知能とは「技術」ではなく「思想」である
人工知能とは「技術」ではなく「思想」である

下西

今日のテーマは人工知能ですが「人工知能に何ができるか?」「社会はどう変わるか?」みたいな話はしません。期待していた方がいたら申し訳ないのですが(笑)、僕は人工知能とは「技術」ではなく「思想」だと思っているんです。なので、今日はそういう視点から話をしてみます。

「人工知能 Artificial Intelligence」という言葉は1956年にアメリカで開かれた「ダートマス会議」という学会で生まれました。1950〜60年代の初期の人工知能の研究者たちは、人間の知能の本質を、記号の操作による論理的な推論の手続きであると考え、それをコンピュータ上に再現することで人工的な知能を創り出そうとしたのです。例えば、迷路を解くときにAとBという道のルートの選択肢を与えて、Aを選んだらこうなる、Bを選んだ場合はこうなる、というように世界をパターン化してそれを推論していくことで問題を解決するという手法です。それが80年代になると人間の神経回路を電子回路で再表現するニューラルネットワーク、そして2010年代に大きく進展するディープラーニング*1 へと続いていく。そういう意味で、人工知能の技術的な進歩はほとんど20世紀後半の出来事です。

しかし、「コンピュータ」という概念は、歴史のかなり早い段階で登場しています。コンピュータの理論が数学的に発表されたのは、1930年代のアラン・チューリングという数学者によるものですが、コンピューティングという言葉自体は、今から約450年ほども昔、日本では江戸時代が始まった頃くらいに既に使われています。

トマス・ホッブズという哲学者が1655年に「computation」という概念と人間の思考を結びつけています。人間の思考の最も重要な働きは理性(推論)であって、それは基本的にすべて足し算と引き算、すなわちコンピュテーション(計算)である、と言っています。なぜホッブスがこんなことを言ったのか?彼は民主主義の基礎となる「社会契約論」というアイディアの考案者です。当時の中世ヨーロッパでは、キリスト教の絶対的な権威と、神の力を授かる皇帝が強大な権力を有する政治制度が支配的だったんですが、同時に大航海時代を経て経済活動が強くなるにつれて、市民が力を持ち始めていた時代でもありました。ホッブスはこうした時代の流れのなか、神の神秘的な力でもなく、皇帝の絶対的な力でもない、市民ひとりひとりが合理的に思考して社会を統制する新たな政治システムを作っていくべきだと考えていました。こうした思考の過程で定義された人間像が、先ほどの思想にあらわれています。すなわち、「人間は理性を使って思考する生き物であり、それはつまるところ足し算と引き算のコンピュテーションである」という考えです。こうした考えはホッブスの独創的なアイディアであると同時に、民主主義のような高度な自己統御の社会システムを設計するために生まれた時代の要請でもあります。新しい社会を創造するためには、新しい人間像―すなわち「合理的に思考する人間」というモデル―が必要であり、かつ実際に人間がそのような存在にならなければならない、という思想があったのです。

*1. むろんディープラーニングは、初期の⼈⼯知能研究のように単純な推論システムを採⽤しているわけではない。むしろそのブレイクスルーは、⼈間の知覚システムに近いパターン認識と、⼤量のデータを⾃⼰学習していく技術にある。しかし基本的には、離散的な記号による情報処理システムであるという点で、その根本思想は旧来の技術と変わらないと考える。

下西 風澄
哲学者

下西 風澄。1986年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学後、哲学を中心に執筆活動を行う。主な論文・執筆に「フッサールの表象概念の多様性と機能」(『現象学年報 第33号』)、「色彩のゲーテ」(『ちくま』2014年8-10月号)、「詩編:風さえ私をよけるのに」(『GATEWAY 2016 01』)など。連載に「文学のなかの生命」(『みんなのミシマガジン』)、「夕暮れのサイエンス」(『GINZA』)。近刊に絵本『10才のころ、ぼくは考えた。』(福音館書店)。
kazeto.jp

世界の説明原理として存在した神
世界の説明原理として存在した神

下西

ホッブズのコンピューティングに対する考え方は斬新ですが、さらにラディカルな発言をした人がいます。ヒューバート・ドレイファスというアメリカの哲学者です。彼は「人工知能の歴史は紀元前450年頃にはじまった」と主張しました。これっていつの時代を指すかというと、今から約2500年前、哲学者ソクラテスが登場した時代です。日本ではなんと縄文時代ですね(笑)。そう、この人は人工知能の歴史においてソクラテスが非常に重要な人物だとそう言ったんです。これはどういう意味なのか、歴史を辿りながら考えていきましょう。

まずソクラテスよりも少し前の時代の話から。紀元前7〜8世紀に活躍した二人の詩人がいます。ヘシオドスとホメロスです。二人ともギリシャの神々について書いた詩人ですね。キリスト教が誕生する以前の古代ギリシアの神々は、一神教ではなく多神教です。様々な神様がいて、日本の神道に近いところがあります。ヘシオドスはその神々の歴史について、ホメロスは神々の物語についての叙事詩を書いた人物です。

「さてニュクスは忌まわしい定業(モロス)と死の命運(ケール)と死(タナトス)を生み また眠り(ヒュプノス)夢(オネイロス)の族を生み ついで非難(モモス)と痛ましい苦悩(オイジュス)を生んだ」
―ヘシオドス『神統記』

ここで出てくる「ニュクス」や「タナトス」は神様の名前です。当時の人々は世界のすべての出来事は神によってもたらされると考えていたんです。例えば、空が暗くなって夜が訪れるのは、ニュクスという夜の神の訪れだし、雷が落ちるのも雷を操るゼウス神の怒りに触れたから、というような感じです。面白いのは、自然現象だけでなく人間の心の動きや生理現象も神によるものだと考えられていたことですね。眠りや苦悩、怒り、悲しみ…人間の心の中にあることも、外にある自然現象もすべて神の仕業だったのです。ホメロスが書いた『イーリアス』はトロイア戦争を描いた戦記で、ギリシア軍とトロイア軍が激しい戦を繰り広げるわけですが、それも人々はお互いに憎しみ合ったりしているわけではなく、神様どうしが喧嘩して人間たちを戦わせているんですね。人間の戦争は、神の代理戦争なんです。

何かが起きたらすべて神々の仕業である、というのがこの時代の「常識」です。現代であれば、たとえば地震が起きれば科学がその理由を説明してくれる。しかし、当時は科学も論理的思考も人間は獲得していない。そんな世界では、神の怒りに触れて天地がひっくり返ったと考えるのが自然です。そして、人の怒りや心変わりも同様に、神の取り憑きとして説明されました。言ってしまえば、あらゆる物事の「説明原理」として神という存在が非常に便利だったんです。

心を“発明”したソクラテス
心を“発明”したソクラテス

下西

すべては神の仕業。
これがソクラテスが現れる数百年前の世界の価値観です。じゃあこの時代の人間の心とは一体どのようなものだったのか。「精神 spirit」の語源につながる当時の古代ギリシア語は「魂 psyche」です。このプシュケー(魂)は、僕たちが想像している心とは大きく違う。ホメロスの時代のプシュケーは、体を流れる血や、死んだら体から霧散する煙のようなものです。ホメロスの『イーリアス』では、「撃たれた傷口からプシュケーが流れる」のような表現で使われていました。

ソクラテス(とプラトン*2 )が登場して以降、このプシュケーの概念がガラッと変わります。彼はどう考えたか。ソクラテスは「魂の本性について真実をつきとめる」と宣言します。ホメロスの時代のように、神様の業に頼らずに、人間が自ら論理的に物事を思考し、魂を「証明」しようとするんです。人間の行動や心についても、神が取り憑いたなんて言わずに、原因と結果を分析して、理性的な推論によってその本性を求めた。そしてプシュケー(精神)は、世界の状態を判断し、自分の身体を統御する理性の座になっていく。魂は「機能 function」を持ち、「管理」「支配」「熟慮」する「肉体の主人」のような存在であると言ったわけです。それまで、空気や亡霊のような存在だった魂が、明確な「自己」を持ち、道徳的判断の主体にさえ変化するんです。ソクラテスが定義したこうした心のあり方を、僕は「制御する心」と呼びたいと思います。今回の講演のタイトルですね。

心をそのように捉えると、今度は肉体の意味も変わってきます。
ソクラテスは魂にとって肉体が邪魔な存在だと言いました。肉体は魂を欺くから、魂は単独で生きられるようにしなければならない、と。どういうことかと言うと、例えば身体って疲れますよね?あとお腹が空いたり眠くなったりする。そういう風に身体は“欲望”を抱くものだから、その欲望が理性的な心をごまかしてしまう、という発想です。ソクラテス/プラトンにおいては、肉体は「魂の牢獄」と捉えられるのです。
人間の心には身体は不要である。その考えから辿り着いた究極の結論。それは、人間の魂は死ぬことではじめて肉体から完全に解放されるから、真理に辿り着けるのは死者のみである、という考え方です。非常にラディカルですよね。そして実際に、ソクラテスは毒杯を飲んで死んでしまうのです。

このように、ホメロスの時代の心の概念とソクラテスの時代の心の概念はまったく違う。でも、たった数百年の間に人間の心のハードウェアとしての脳の構造が根本的に変わるわけがありません。ということは、心は人間に自然に与えられたのものではなく、ある時代のある人間によって“発明”されたものではないか、というのが僕の考えです。ソクラテスは心の概念を発明したんですね。別の言い方をすれば、ソクラテスは人間の心の最初のプロトタイプをデザインした人物だと言っていい。
このソクラテスの発明の延長線上に、人工知能もあるのではないか。それがドレイファスの「人工知能の起源はソクラテスにある」という発言の意図です。だからこそ現代でも、古代ギリシアでソクラテスの起こした「思考の革命」が未だに続いている。逆の言い方をすれば、人間の心の本質を、身体が不要な論理的推論のシステムだとするソクラテス的思想は、人工知能という技術によって達成され得るかもしれない、AIはそんな西洋の歴史に深く根ざした長年の「夢」だ、と考えることもできます。さて、その夢は果たして実現するのか、また少し違った視点から考えてみましょう。

*2. ソクラテスは、書物を⼀冊も書いていない。彼はギリシアの賢⼈や市⺠たちと議論を⾏うだけであった。その議論の様⼦をすべて⽂字に書き起こしたのが弟⼦のプラトンであり、私たちはプラトンの著作を通じてしかソクラテスの思想に触れることができない。したがって、ソクラテスとプラトンの思想を厳密に区別することは難しい。プラトンの著作時期や他の伝記などから、ソクラテスの後期著作に⾒られる「魂」の存在論はプラトンの思想であると解釈されることが多いが、本講演ではその区別を省略して話している。

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