NDC LUNCH
MEETING

井口皓太 映像デザイナー/クリエイティブディレクター

Event Date : 2020.6.23

井口皓太 映像デザイナー/クリエイティブディレクター

先進のテクノロジーや独自の発想で、デザインの可能性を広げる人たちがいます。さまざまな領域を横断し、これからのデザインをともに考える「NDC LUNCH MEETING」。今回は、映像デザイナー/クリエイティブディレクターの井口皓太さんをお招きして、今まで手掛けられた仕事やモーショングラフィックスの特性についてお話しを伺いました。

最初は遊びで作り始めたモーショングラフィックス
最初は遊びで作り始めたモーショングラフィックス

武蔵野美術大学基礎デザイン学科3年生の時にTYMOTEというデザインチームを作りました。最初は仲間が作ったグラフィックを遊び感覚で動かしてtumblrにあげたりしていましたが、そのあたりから僕のモーショングラフィックスの道が開き始めたのかなと思います。ミュージックビデオやイッセイミヤケさんの仕事をやらせていただきましたが、そのうち仲間たちそれぞれ自分の行きたい道が明らかになってきたので活動を一旦停止して、2013年にもう一つCEKAIという組織を作りました。とにかくいいものを作るだけの「いいものつくる教」をやろうと。クリエイターだけでなく、仕事を持ってくるプロデューサー、クリエイターをサポートするマネージャーなど、フリーランスの人たちと有機的に繋がって仕事ができるような、会社を超えたゆるいネットワークのような組織です。

グラフィック側の言語を翻訳し、その上で絵を動かす
グラフィック側の言語を翻訳し、その上で絵を動かす

僕はグラフィックデザイナーとして仕事をし始めましたが、自分や仲間が作ったものを動かすモーショングラフィックスの方が、自分のアイデンティティが担保されると感じるようになりました。しかしモーショングラフィックスというとCMの最後をちょっと動かすという仕事しかなく、実写の映像監督も手掛けて映像ディレクターとなり、仕事によってはクリエイティブディレクターもやらせてもらうようになりました。しかし、いわゆる肩書きとして今一番しっくりきているのは「映像デザイナー」です。グラフィック側の言語がなんとなく翻訳できて、その上で絵を動かすことができるというのが、一番重要だと感じています。

今までの仕事を少し紹介します。「kanji-city」(外部サイト)は、スポーツジムに実装された作品で、iPadを見ながら自転車を漕ぐとそのスビードで映像のスピードも変わっていくというアニメーションです。僕はストーリーにはあまり興味がなく、グラフィックを動かすことに惹かれるのですが、3秒ぐらいの短いアニメーションが繰り返しループされます。これは海外で賞を取ることもできました。次は、もう少し日本の文字を読むということを作品にしてみたいと思って、基礎デザイン学科の先輩である大原大次郎さんと共作したものです。これは(外部サイト)ミュージックビデオの歌詞だけをひたすらタイポグラフィで描き、僕がそれを空間的に、カメラワークだけで伝えていく作品です。ある瞬間のカメラアングルのときだけしか文字として成立しない、ギリギリ読める、文字を体感する、そういう表現を目指しています。作り方ですが、僕がとりあえずの文字をCGの空間上に配置してカメラで追いかけて最初の骨子となるものを作り、それを大原さんに渡して、その展開図に合わせてもう一度文字を作ってもらう。それをさらに映像にしています。重力関係がないCG空間の中にしか存在しえない文字の作り方に挑戦しました。

井口 皓太(Iguchi Kota)
デザインアソシエーションCEKAI代表。

1984年神奈川県生まれ。2008年武蔵野美術大学基礎デザイン学科在学中に株式会社 TYMOTE(ティモテ)を設立。グラフィックデザインを軸にブランディング、CM、MV、ライブ演出など、さまざまなデザインワークを行っている。また、2013年に世界株式会社を設立。会社や所属、肩書きによるフレームを超えた、クリエイターとマネジメント、社会とが真に共存する場をクリエイションしている。近作としては、彦根城PV「彦根に集え」、NIKE “FUTURE OF AIR”、UNIQLO The Art and Science of Life Wear Creating a New Standard in Knitwear Room2-演出などがある。
主な受賞歴に2014東京TDC賞、D&AD2015 yellow pencil、NY ADC賞2015goldなど。
京都芸術大学客員教授。
Web site
東京2020動くスポーツピクトグラム

グラフィックの中に、どう動かせば気持ちいいかが詰まっている
グラフィックの中に、どう動かせば気持ちいいかが詰まっている

文字を作っていく案件も多いですが、既に決まっているロゴや文字を動かす案件も多くあります。これはナイキのモーションロゴの仕事です。自由に動かしていいのですが、どう動いたら気持ちいいか、その要素がすでにグラフィックの中に詰まっていると思います。Aが2つ中央で揃っていて、だんだん文字が小さくなっているから、ここは奥行きを使えばいいかなとかです。

もう一つもナイキの仕事ですが、やはり文字にはこう動かして欲しいというものが最初からかなり備わっている気がします。書道で考えたとき、書くまでの所作や書き終わった後の体幹がどう動いているかを、私たちは想像することができますよね。私はCinema 4Dという3Dソフトを主に使っていますが、文字を動かす場合、動きの軌道を最初に描きます。グラフィックがどう入ってくるか、どう逃げていくか、その軌道の線に沿わせて動かします。

東京にオリンピックが戻ってきてスポーツピクトグラムが初めて動く
東京にオリンピックが戻ってきてスポーツピクトグラムが初めて動く

東京2020オリンピック・パラリンピックのピクトグラムを動かす、モーションデザインの仕事をさせていただきました。オリンピック・パラリンピック合わせて73種類もありますが、一人でアシスタントなしで作りました。僕の中ではモーショングラフィックスはまだ量産されているイメージがある気がして、グラフィックデザインや建築と同じく、職人がきちんと作っている次元にモーショングラフィックスを持っていきたいと思ったからです。もちろんとてもたいへんなので人を巻き込めないというのもありましたが。加えてモーションデザインというのは、作り手のクセというか、とくに人体の場合は、その人の身体性やリズム感が出てしまいます。統一性を出すため、また作りながら変わっていく意識を大事にしたかったので、敢えて1人で挑むことを決めました。

東京2020動くスポーツピクトグラム(外部サイト)

ところでそもそもピクトグラムって動く必要があるの?という声もあるかと思うのですが、世の中には大量にモニターがあり、そこでは静止画をフェイドインフェイドアウトさせて流しています。だとしたらきちんと動かしてあげることには、意味があるのではと思います。1964年の東京オリンピック以来、開催国がそれぞれのアイデンティティでピクトグラムを作ってきたわけですが、東京にオリンピックが戻ってきて、初めてピクトグラムが動いたとなるのは、10年前から自分がやってきたことの集大成とも言えることで、とても嬉しかったです。

静止画の前と後ろ段階を作ったのが「動くピクトグラム」の特徴
静止画の前と後ろ段階を作ったのが「動くピクトグラム」の特徴

すでに完成している静止画ピクトグラムの前段階と後ろ段階を作ったのが、今回の特徴だと思います。プレゼンテーションの段階では、まだ廣村正彰さんが制作したピクトグラムを見ることができなかったので、1964年の東京オリンピックのピクトグラムを使って「出現する」ところと「消失する」ところを作りました。僕にとって恐怖だったのは、ピクトグラムは”瞬間”を切り取っているので、”瞬間”を無理に動かすと棒人間のアニメーションのようになってしまうことでした。それで、その”瞬間”を重視するめに、ピクトグラムは止めて見せましょう、その手前と後ろを作りましょうとお話ししました。

僕がモーショングラフィックスを担当することに決まって、初めて完成形のピクトグラムを見たのですが、陸上競技を例にお話しすると1964年のものとは全然違うもので、正直なところを言うと、動かしづらいなあと感じました。モーショングラフィックスは、図を動かすと思われるかもしれないのですが、地と図の関係の中で「地」の部分をどうやって動かすかがとても重要です。要するに見えている部分を動かすだけではなくて、消している部分をどうやって動かすかが重要になります。

廣村さんのピクトグラムは、円形の軌跡で作られているので、僕は3Dの球体の軌跡でピクトグラムを作りました。特に難しかったのは、グラフィックデザインと映像の違いです。サッカーを例にお話しすると、廣村さんは右足で蹴ろうとした瞬間を描いていますが、これはグラフィックの情報としては成立しているんです。ところが動かそうとしたら蹴ることができなかったんです。それでサッカー経験のあるプロジェクトメンバーに、蹴らなかったとしたら、このポーズで何ができるかと聞いたところマルセイユルーレットというパターンなら成立すると。それでちょっとフェイントを入れながら出現させて、蹴らないで1回ドリブルさせて蹴るというのに変えました。セーリングのモーショングラフィックスでは、上手くいったと思って確認をお願いしましたら、これでは沈没してしまうと言われて。短いモーションできっかけを作りたくて、いつのまにか競技の方を制限してしまうという”沼”に入ってしまったんですね。この時はヨットをやっている親戚に聞いて実際の紐の持ち方を教えてもらい、やっと沈没の理由がわかったのですが。サッカーといった身近なスポーツで自分の身体と関係するものは、なんとなくわかるのですが、ヨットなどモノを使う競技はどうやったらどう動くかが全然わかりませんでした。柔道も足の位置や腰が入っていない、それでは力が入らないなどいろいろご指摘がありました。細かい修正を繰り返して、競技によっては20回ぐらい修正したものもあります。

修正過程

菰田(NDC)

柔道では、3D上でも組み合っているのですか。

井口

はい、ミニチュアの3Dモデルが組み合っているのを再現しています。しかしそもそも静止画の胴着は3Dを考えて表現しているわけではないので、そのまま3Dにすると変なんです。ですから3Dで再現できてもそれが正解ではなくて、少々変であっても気持ちよく見えるカタチを探りながら表現しています。

自分自身がある種の職人だと体現したい
自分自身がある種の職人だと体現したい

原(NDC)

動画というモノがピクトの殻を被って非常にいい水準で出現した、歴史的な仕事だと思います。
動画にするためにたいへん苦労されたようですが、もし井口さんが全部作ったらまったく違うものになりましたか。それとも静止画の殻に落とし込んでいくところに、今回のクリエイションのポイントがあったのでしょうか。

井口

大学の時に、原先生が「グラフィックデザインは、時間と空間を内包している」とおっしゃっていたのが強く印象に残っています。グラフィックデザインは基本的に動かして欲しくないと思って作られている。それなのに動かしてもう一回時間を作られるって、どういう感覚なんだろうと。なので、時間を持ったからこそ見えてくるものがないといけない、グラフィック自体が映えないといけない。このことは強く意識しています。最初から僕が作った方がいいのではという質問ですが、全然動かない、やりづらいというモノが案外面白くなったりします。もし僕が全部やったら、動かしやすいからこうしておこうとなって、強度を持たない気がします。

原(NDC)

ゼロからポチッとマルが出て出現するとき、例えばミルクの海から石膏像が出てくるような、「出現」と「消失」の方法に独特のものがある気がしますが、この点についてどうですか。

井口

みなさんよくご存じの”フェイドインフェイドアウト”は、透明度がだんだん下がったり上がったりしますが、人が透明になるにはたいへんなエネルギーが必要で宇宙的にさえ感じて、僕には違和感があります。そのため、今回「出現」だからといってマルがだんだん大きくなる小さくなるといったことはしていません。どうやっているかというと、例えば、振っている腕の肘関節の一点をマルにしてそこから「出現」させるなど、競技の動きと運動する中で出しています。ふわっと出てくるように感じられたかもしれませんが、その前に動いているところをキャプチャーしているといったものが多いです。

図形が持つ「こちらに動いて欲しい」を重視する
図形が持つ「こちらに動いて欲しい」を重視する

色部(NDC)

自分も施設のピクトグラムなどを制作しますが、それぞれ個別に伝えなくてはいけないことがあって、全体の繋がりがなくなっていくことがあります。今回もそれぞれの競技者の要望を最大に叶えようとすると、横の繋がりが失われそうですが、それぞれがイキイキしながらも統一された宇宙を描いている気がします。どうやって横を統一したのでしょうか。例えばリズムを意識して同じ音楽に合せるとか、それとも尺(長さ)を意識したとかでしょうか。

井口

確かに横を統一するのは難易度が高かったです。10個作ってもう一回戻るということをずっとやっていました。途中から競技によって時間を変えてもいいことになったので時間は同じではないですが、図形が持っている「こちらに動いて欲しい」ということを大切にしました。基本的には競技者の人たちの意見を反映するけれど、動きの面白さも入れて、修正がある度にもっとよくしよう、もっと自分の哲学の方に寄せていこうと(笑)。パラリンピックのバスケットボールのピクトは、バスケットが頭のすぐ上あたりに描かれていますが、その位置のままだと、こんな近い距離にボールを入れるのでは、競技者の人たちに申し訳ない気がしてゴールを奥に動かし、遠くにボールを投げているように見せています。動きを知るためにYouTubeなどで何度も競技を見たのですが、そのたびに感情が揺さぶられて。やはりある程度リアルにしなければ、と思いました。

松野(NDC)

オリンピックの時に、どんな使われ方をするとモーショングラフィックスのポテンシャルが発揮できると思われますか。

井口

まずは全世界に流れて欲しいです。日本だけで使われることになってはいけないと再三言っています。次回のパリ大会の映像デザイナーが、違うデザインですでに作り始めているかもしれないですよね。継承してバトンが渡っていく、それがなにより嬉しいことですが、たいへんすぎるから動かすのをやめようと、無かったことにされるのが一番怖いですね。オープンソースにして、パーツを替えながら、それに伴って動きも変えようとか進化させていく、そのためならいくらでもデータを渡したいと思っています。64年に初めてピクトグラムが使われたときは、英語もわからない人たちがたくさんいる中で、この会場でこの競技をやっていることがわかるのは重要なことでした。でも今は情報のキャッチの仕方が変わってきています。東京にはサイネージやモニターがたくさんありますから、どんどん使って欲しいです。

細川(NDC)

井口さんは映像の速度をどのように決めているのでしょうか。ビデオクリップでは歌があるのでそれがひとつの目安になったりすると思いますが。

井口

映像の速度は、時代の温度感とシンクロしていて、自分の場合はどんどん早くなってきています。ただ今回のピクトグラムをお披露目した際に、仲間には優しいねと言われました。いろいろな年代の人が見るものなので、そのあたりは考慮しています。すべての競技が同じではなく、バスケットボールはスーパースローで、BMXはとても速くなど競技によって変えていますし、ひとつの競技の中でも、一番見せたい動きを速くしたりゆっくりさせたりしています。

他者が介入することで自分の身体性から離れられる
他者が介入することで自分の身体性から離れられる

宮崎(NDC)

ビクトグラムのモーショングラフィックスを一人で作られたのは、自分の身体性を他者と共有するのが難しいからと話されていましたが、自分の身体性の源を感じる瞬間はどんな時ですか。

井口

僕は高校生までずっと野球をやっていてキャッチャーでした。これは、視点という意味でその後に生きているかもしれないです。ランナーを見ながら、レフトがどのポジションにいるかを同時見るとか、影響している気がします。モーションデザインにはその人のリズム感が出るのですが、スポーツをやっている人はやはり映像が上手いです。ダンスをやっていた人のモーショングラフィックスはイキイキしていて、でも少し眩しすぎるとか。アイデンティティがそれぞれ出ます。ただ、その個性から逃れられないとも言えます。それから脱するときというのは他者が介入したときかなと。これは難しい、どう動かそうかとなったときに、自分の身体性から離れられる気がします。

白石(NDC)

走っているといった動作は上から見ても45度斜めから見ても、この人が何をしているかがわかると思いますが、文字の場合は、文字だと認識できる角度で見ていないと破綻しやすいと思います。文字を扱うときとビクトグラムのモーショングラフィックスを扱うときとでは難しさに違いがありますか。

井口

そうですね。しかし基本的考え方は同じだと思います。地と図の関係、そのグラフィックの良さをどう生かしていかしていくか。文字もピクトグラムも重力関係や、どっちに動いて欲しいかをそれ自体が言っていて、それに応えている気がするので。基本的にはあまり変えないで作っている気がします。

アスリートたちが主人公
アスリートたちが主人公

稲垣(NDC)

ピクトグラムのモーショングラフィックスですが、具体性を追加して前後に動きを加えるというのは、どの段階で決められましたか。

井口

僕は、当初、そもそもビクトは「見立て」なので、それを人間のようにすると不気味なものになってしまう。「人」と思わないようにしよう、競技をしている人間だと思わないようしようと意識しました。図形として見て、三角形が右を向いていたら、右に動いて欲しいと感じる、そういう共通認識を掘っていこうと思いました。しかし結果として、クラウチングスタイルをクラウチングスタイルとして見せることにしました。それはスポーツ選手へのリスペクトです。デザイナーが、この図形はこっち向きだからこっち向いた方が気持ちいいというのは通用しない世界だということを早めに感じました。アスリートたちが主人公だから、彼らが目指そうとしている動きを取り入れないといけないと映像デザイナーとして感じました。結果として、その方が見やすくて違和感がないものになったと思います。

宮崎(NDC)

映像のサイズについて伺います。オリンピックのピクトグラムはどこで使われるかあらかじめ想定できると思いますが、井口さんがYouTubeやNetflixで使われるモーショングラフィックスをつくるときには、なにか心掛けていますか。

井口

どこで使うかというのは最初に必ず聞きます。しかし映像はどんな体験として見られるかが設計しづらく、あるデバイスだけにむけてという気持ちで作れる媒体ではない気がします。映像というのは、フレームの見立てでしかないので。ただ、その中身だけを作っている感覚ではなく、引いた視点、メタ視点というのは大切で、フレームの外に意識を持つことは僕の中で重要です。しかし未だに映像はフィジカルじゃない、軽いものじゃないですね。繋がる、インストールする、流すことがもっとフィジカルに感覚的になっていくといいなといつも思っています。

以上