「未知」に気づかせる

朝日新聞 2012年2月6日
「文化の扉」より

Mar 07, 2012

情報デザインの一つの切り口は「わかりやすく明快に」ということです。色々なものを一緒に詰め込まない。動く現実を簡潔に集約して人の頭に焼き付ける。人の限られた時間を情報の理解のために無駄に消費させてはいけない。高度に編集されていれば、瞬時に理解を生み出せる。
人がわかるというのはそんなに複雑ではなくシンプル。円グラフ、棒グラフ、折れ線グラフの三つだけでも、適切に使えばかなりのことは表現できる。それを視認できる大きさと色で的確に表示する。どういうデータを元に何を語るかという、論理の明快さと連続性が重要なのです。
別の観点もあります。先ほどと逆のようですが、コミュニケーションとは、相手にわかったと思わせることではなく、「いかに知らなかったか」を覚醒させること。情報を与える「インフォーム」に対して、ぼくは独自に「エクスフォーム」と言ったりしています。知っているつもりのものを「未知化」していく視点。できるだけ少ない、整理された情報を使って、結果として「もっとわかりたい」という主体的な能動性をどれだけ引き出すかが肝要です。

人類縮退化社会へ

月刊誌『図書』第749号

連載「欲望のエデュケーション」
23回 大人たちのプリンシプル より抜粋

Jul 10, 2011

人類は記録に見る限りは増加を志向する生物であった。氷河期などの気候変動に起因する人口の減少や、疫病の大流行や戦争がもたらす人口減少はあっても、安定した営みが継続している状況での人口減少はこれまでなかったのではないか。レヴィ=ストロースなどの文化人類学者があぶり出してきた人類の営みは、繰り返し繰り返し生の横溢を謳歌する行動パターンであり、女が男に「贈与」され、男の所有となるような文化の「型」も、巨視的には子孫の繁栄、すなわち人口の増加を暗黙裡に豊穣のバロメーターと認識してのことではなかっただろうか。しかしながら人類はついに減少を始めたのである。成熟した文明社会において、女は出産と育児という、自身の社会的能動性を制限する要因をできるだけ低く小さく抑えるようになり、子供を産んでも1人だけという傾向が徐々に顕著になりつつある。世界の趨勢はそれでもまだ増加傾向を示しているが、先進諸国の大半は人口減少へと進路を変えようとしている。これは人間世界の本質が変わっていく、非常に大きな変節点なのかもしれない。王や独裁者が君臨する社会において、個の自由は抑圧されてきた。しかしそれでも人々は増え続けた。国と国との軋轢が個人を押しつぶすような大きな戦争を経ても、人類は増加を続けた。原子爆弾が投下されて何十万人という命が一瞬で奪われても、それでも人々は増え続け、都市はやがて破壊前を凌ぐ人口であふれた。しかし今、かりそめといえども平和の中で人類は減少を始めたのである。子供を産み育てる繁栄の喜び以上の享楽がそこに見つかったからか。あるいは存続への本能がこれ以上の増加を危惧して過度な繁殖にブレーキをかけているのか。日本は、そのような趨勢の先頭を切って、老齢化社会へと移行しているのである。昭和のはじめに6,000万人だった日本の人口は、2000年を過ぎる頃には倍以上の1億3,000万人近くに達したが、今後は同じ歳月をかけて縮小し、今世紀の終わり頃にはふたたび6,000万人程度になると言われている。日本になにが起きているのだろうか。

自由の行き着く先

月刊誌『図書』第749号

連載「欲望のエデュケーション」
23回 大人たちのプリンシプル より抜粋

Jul 10, 2011


放射能汚染にしろ、相撲の八百長事件にしろ、情報の開示が叫ばれている背景には、いかなる問題にしろ、中枢の人々が密室で解決にあたるのではなく、開示と共有を通して無数の知の連鎖にそれをゆだねることによって、より早く最適な解答にたどり着けるのだという発想が常識化し始めているからだろう。熱い衆愚ではなく冷静な集合知が、最も無駄なく合理的な解決をもたらすだろうという、これは思想というよりもある種の感受性のようなものが社会の中で機能しはじめている。個々の人々の自由が保証され、誰もが欲しいだけ情報を入手することの出来る社会においては、人々は平衡や均衡に対する感度が鋭敏になる。したがって「夜なべをして手袋を編む」ような、アンバランスな献身を発揮して子育てや家事にいそしむ母のイメージは支持を得られない。女性は社会の中に相応のポジションを得て、賢く損のない人生を生きようとする。少子化の根は、育児にお金がかかるからという単純な理由にあるのではない。全ての人々が自由を享受する社会の趨勢に根をおろした現象なのである。

能動性の規準は若さではない

月刊誌『図書』第749号

連載「欲望のエデュケーション」
23回 大人たちのプリンシプル より抜粋

Jul 10, 2011

「能動性」の根拠を「若さ」や「年齢」に求めるのではなく、「購買力」や「経験値」、「目利き」や「破格」などにおくと、これまでとは別の能動性や市場をこれからの社会に喚起できるのではないかと思うのである。ロック・ミュージシャンのミック・ジャガーは68歳。年齢的には立派な老人だが、そういう認識ではとらえにくい。若さは既にないが、多くの時間をロック・スターとして生き抜いてきたことで強烈な存在感が醸成されている。老齢化社会を考える時、いつも僕はこの人物を思い出し、一つの態度に回帰する。そこに平衡や均衡への配慮はない。あるのは超然とした大人のプリンシプルである。

自転車で走る未来

季刊誌『住む』No.38

連載「どこかにある」34 回より抜粋

Jun 21, 2011

北米の西海岸、オレゴン州にポートランドという街がある。スポーツシューズで知られるナイキの本社や、古書と一般書を同じ棚に並べるので有名なパウエルズという巨大書店などがあるが、都市として派手な存在感があるわけではない。しかしエコロジカルな洗練とでも言おうか、古いビルや素材を大事に再生させながら、ピカピカの都市にはない住み心地を体現している。
この街に「ワイデン・アンド・ケネディ」という広告会社がある。そこのパートナーの一人で、かつて日本に同社の支社を開設し、ナイキやユニクロの広告で注目を集めたクリエイティブディレクター、ジョン・C・ジェイから、ぜひポートランドを見てほしいと何度も言われていた。知的で精力的なクリエイターである彼がそれほど言うのだからと、以来ずっと気になっており、北米出張の折に立ち寄ったという次第である。
ポートランドの街は、市街地として開発をしていい地域と、自然を残さなくてはいけない地域の線引きが明快に出来ている。