被災からの復興

月刊誌『図書』第748号
連載「欲望のエデュケーション」
22回 東日本大震災から より抜粋

Jun 01, 2011

被災地の空気に触れ、僅かながら現地の人々と接した感触から感じたことは、いわゆる復旧や復元ではなく、新しい未来型の構想を、土地の人々の意志とともに育てていくことが最も重要だろうということだ。現地の人たちにとっても、日本の他の人々にとっても、そして世界の人々にとっても、ここに新たに人知の先端が育まれていくというイメージが大事になるのではないかと直感したのである。
復興は、短期から長期へという展望の中で計画されるだろうが、まずは被災生活の物的・精神的援助と、仕事の創出がさしあたっての課題となる。仮設住宅のような居住の確保については、コミュニティや人間関係への配慮を十全にという声が多方面から聞かれ、この点については阪神淡路の経験が生かされているのを感じた。
問題は、壊滅的な被害の出ている街や産業をどう立て直していくかという長期の復興計画だ。元来、震災がなくても過疎や老齢化など、縮退していく日本の構図がそのまま現れている地域でもある。多くの犠牲者を出し人口を失っている地域を復元しても物事は明るい方向には進まない。高度成長とともに人口が増大している時であれば、被災の傷跡は街の自然な成長や拡大によって徐々に覆われていったかもしれない。しかし縮退する日本ではそうはいかない。老齢化に向かう人々が安心できる暮しを取り戻すことは勿論重要だが、それだけでは足りない。複数の街や港をまとめて、都市機能や港湾機能の効率化をはかるような、抜本的な都市の再創造が模索されている。
津波被害の後、真っ先に検討されるのは、津波の及ばない高台に街を作って、低地の居住をやめるという構想である。低地は確かに津波に弱い。だからそういう案を採用する町や村もあるかもしれない。しかし、解決策はそれだけではないだろう。おそらくは、建築や土木技術の先端性を携えて、異なる視点からの提案が出来る人々がいるはずである。中国など、アジアの新興国において、世界の知恵を集めて立案される都市計画には、これまでの常識を超えた斬新なプランを散見する。人類はレンガの時代もコンクリートの時代も通り超えて、頑強な人工地盤を構築できる時代に入ってきた。従って復興計画においては、港に近く温暖で景色もいい沿岸部に、集団居住のできる丘のような規模の新たな都市のかたちが構想できるはずだ。
三陸沖は世界で指折りの恵まれた漁場である。ここに漁業や水産加工業を復活させることは当然可能である。日本からでも世界からでも、現地の人々や産業を助ける資金は集まるだろう。また被災地域の平野部も、稲作だけではなく酪農や野菜の農地としての潜在性も高い。これを契機に集約的に事業性を見直すことが出来れば、農の未来に対しても意欲的な構想が描けるかもしれない。要は若者がそこに新たに移り住みたくなるような魅力や希望を、復興プランにどう盛り込めるかである。

知恵を集めるグランドデザイン

月刊誌『図書』第748号
連載「欲望のエデュケーション」
22回 東日本大震災から より抜粋

Jun 01, 2011

無数の知の成果を受け入れる巨大なパラボラアンテナのような仕組みこそ、復興のグランドデザインに相応しいのではないかと僕は思う。中央集権的な上意下達ではなく、多種多様なアイデアの受容に最大の力点を置く仕組みである。
より多くの知恵を交差させ、互いにぶつけ合いながらアイデアの精度を上げ、それらを分かりやすく編集し、相応しいメディアを通して被災地の人々に届けていけばいい。被災地の人々はその提案を必ずしも受け入れる必要はない。しかし現実に追われる日々の中では考えつかない画期的な着想を手にする機会は飛躍的に増えるはずだ。
メディアは様々にあるが、こういう場合はネットもさることながら書籍がいい仕事をするだろう。震災直後の時期に誰がなにを考え、いかなる提案をしたか。そのドキュメントを正確に記録する媒体としては、流動性の高いネットよりも情報が固定できる書籍の方が信頼度も高いし使い勝手もいい。しかるべき機関が編集と発行を担い、アイデアの蓄積に応じて続々と号数を重ねていけばいい。ネットは知恵を集散するアンテナの役割を果たすだろう。被災地だけではなく、日本の他の地域や世界の人々とこれらの情報を共有することができたら、東北は希望の成長点へと転じていくはずだ。

放射線リテラシー

月刊誌『図書』第748号
連載「欲望のエデュケーション」
22回 東日本大震災から より抜粋

Jun 01, 2011


原発事故については、まだ予断を許さない状況だが、自分たちに出来ることは放射能に対する基本的なリテラシーを、新たな常識として社会に浸透させていくことに協力することである。原発の是非を今、突き詰め過ぎると福島は逆に追い込まれてしまう。まさに逃げ場を失ってしまう。
放射線を無闇に恐れるのではなく、その危険度を適正に判断できるリテラシーを向上させることが先決である。風評被害は、農作物や漁業だけの問題ではない。観光立国をめざす日本にとっても深刻な事態である。すでに日本を訪れる観光客の客足はぴたりと止まっている。工業製品すら日本製品の輸入を制限する国が出始めている。放射線リテラシーを世界に浸透させなくては状況の好転はない。
日本は、これを契機に低エネルギー消費の先進国へと脱皮していけるはずだし、原発は新たなフレームの中で再考を余儀なくされるだろう。安全性もさることながら、原発は処理の困難な廃棄物を残してしまう点に根本的な問題を抱えている。クリーンエネルギーに切り替えていくことには賛成である。しかしその前に、放射性物質や放射能についての理性的な対応力を世界にアピールしていくことが必要である。まずは高い密度と精度を携えた、客観的で説得力のある放射線量の測定から始め直す必要があるだろう。これは原発事故に遭遇してしまった国の避けられない課題である。

列島に目を凝らす

月刊誌『図書』第742号
連載「欲望のエデュケーション」
16回 国立公園 より抜粋

Dec 01, 2010

日本列島という国土をどう生かすか。これが日本という国の永遠の課題である。アジアの東の端に、大陸から離れ島々の連なりとして存在する。これは世界の地勢から見てもかなり個性的なことである。
大きな島が4つ。九州、四国、本州、そして北海道。それぞれがほどほどに接近しているので、海底トンネルや巨大橋を架けて、今ではひと続きになった。四つの島には元来「島」という名称はついていない。つまりこの地に住んでいる日本人にとって、これらは「島」ではない。海によって他の世界から隔絶された十分に大きな陸地すなわち「くに」なのである。それ以外の無数の島々には「島」という呼称がきちんと付されている。
隣国との境は海であり、それゆえ境界という観念は明確だ。韓国や中国、ロシアとの間は海。アメリカも太平洋を挟んだ遠いお隣さんである。だから日本には、世界から明瞭に独立しているというイメージが濃厚にある。自ずと「くに」というアイデンティティも強く育まれ、日本語というもう一つの祖国がさらにそのアイデンティティを強固なものへと搗き固めてきた。
一方で、気候風土も独特である。中央アジアのヒマラヤ山脈が8,000m級であるために、偏西風が南に迂回し、湿潤な大気を日本列島上空に運んでくる。これが山々にあたって雨や雪となり、国土の大半を覆うこんもりとした森を生み出すもとになっている。水に恵まれた国土は急峻で、山から海へと毛細血管のように走る川は、大陸の滔々たる大河と比べると流れも速く滝のように俊敏である。火山活動によって出来た大地は変化に富み、温泉がいたるところから湧きだしている。

風土の再生

月刊誌『図書』第742号
連載「欲望のエデュケーション」
16回 国立公園 より抜粋

Dec 01, 2010

汚れてしまったのは海や川だけではない。無味乾燥な人工物によって固められた海辺と同様、暮しも都市も汚れた。工業を推進して国を成り立たせていくために必要とされる道路やダムの建設、そして景観の調和を黙殺したままの都市の増殖も国土を汚した。経済を加速させていくために容認されてきた公共空間における奔放な商業建築や看板の乱立は、景観を慈しむ感覚を麻痺させ、日本人のデリケートな感性の上にかさぶたのような無神経さと鈍感さを貼り付けてしまった。現代の日本人は「小さな美には敏感だが、巨大な醜さに疎い」と言われるが、その背景がここにある。
茶の湯や生け花といった伝統文化、あるいは個々のデザインや建築に関してはきわめて高度な創造性や洗練を見せる日本ではあるが、その集積であるはずの景観が醜い。この傾向は都市に限った訳ではない。田舎もまた同じ問題を抱えている。都市に倣おうとしているところも、単に洗練に至っていない鈍重な感性も含めて。田舎にはたしかにあふれるような自然がある。しかし殺伐とした風景にも数多く出会うのだ。
工業生産で少しやつれてしまった国土を心休まる安寧の風土として再生させていくためには、まずは掃除をしなくてはいけない。既に何度も述べているように、日本人の感受性はもとより繊細、簡潔、緻密、丁寧なのである。これを自覚していくことで、経済文化の次のステップへと僕らは進んでいけるような気がするのだ。