Nippon Design Center

言葉ざわり

2025.09.30

言葉には、意味や概念だけではなく「世界の手ざわり」を伝える機能もあります。時代や社会とともに変わっていく私たちの身体感覚を、まだ辞書にはない言葉で表現し、現実を動かす「身体のある言葉」を探る試みが「言葉ざわり」です。

かつてないほど言葉が世の中にあふれているように感じます。デジタル技術の進歩やメディアの増加によって無数の人たちが言葉を発信することができるようになり、さまざまな議論が世界中で活発に行われていることには、もちろん大きな意義があるはずです。

一方で、たとえば「論破」のような単語を見かけると、議論が言葉の技術の競い合いのようになっている印象も抱きます。剣の代わりにペンを使うというよりも、ペンを剣のように、ときにはペンをミサイルのように空中で放ち合っているように感じられることもあります。

しかし言葉は、意味や概念を伝えるための抽象的な道具であるだけではなく、私たちが現実に携えている身体や環境と地続きの存在でもあるはずです。「世界の手ざわり」と「言葉の手ざわり」が離れ離れにならず、できるだけ一致した身体ぐるみの言葉を探れば、私たちの感覚に直に触れ、現実を具体的に動かすような言葉がもっと生まれてくるのではないでしょうか。

時代の感触を言葉にする

「世界の手ざわり」と「言葉の手ざわり」を近づける手法のひとつに、「時代の感触を言葉にする」という試みがあります。たとえば「地震」という言葉。「地」と「震」という漢字の組み合わせによる意味の理解とともに、「ジシン」という音からも地面が激しく揺れ動く現象が感覚として立ち上がってきます。一方で「余震」はどうでしょうか。「余」と「震」の結びつきを瞬間的に想像しにくく、さらに「ヨシン」というやわらかな響きと実際の現象とに落差があるため、強い警戒心を抱きにくい人も少なくないはずです。しかしこれを「続震」「続々震」としてみると、濁音が身体感覚に響き、記憶が想起され、「まだまだ気をつけなければ」という切迫した気持ちが引き出されやすくならないでしょうか。

2021年に日本デザインセンターが企画構成を担当した国立科学博物館の企画展のタイトル「WHO ARE WE」も、上記に近しい観点から言葉を考えた事例です。本展は、国立科学博物館の収蔵庫にあるおよそ490万点という膨大な標本から選んだ哺乳類の剥製を展示する巡回展ですが、公開当時、世界はコロナ禍の真っ只中でした。そして、ウイルスの存在を通して世界中の人々がヒトと自然、ヒトと地球とのつながりという大きなテーマを自分の問題として捉え始めていた時期でもありました。そんな状況の中で人々の心身に届く言葉とはどんなものか。ひょっとすると、これまではヒトという範囲に限られていた「わたしたち」という意識が、ヒト以外の動物や生きものも含めた範囲にまでに広がりつつあるのではないか。そんな仮説を立て、「わたしたちは誰なのか」という言葉を展覧会名として掲げました。規模としては小さな展覧会が15万人をこえる人々に来場していただけたのは、「哺乳類の剥製展」ではなく、その時代に生きる人たちが切実に抱いていたであろう感覚をタイトルに置き換えたことも後押しになったはずです。

個人の感触を言葉にする

時代という大きな枠組みの感触をなぞった言葉とは対照的に、個人が抱いた印象と結びつけた言葉にも、世界と言葉の手ざわりを近づけることができる可能性があります。たとえば先ほどの「WHO ARE WE」展のコーナーのひとつに「ぐるにょろつん」という小タイトルを付けました。これは「角とは肉の上に突出した物体を意味し、様々な役割と形がある。たとえばウシ科の角は骨の芯の周りを角質化した硬い皮膚が覆っていて、オスにもメスにもある場合が多く、一生伸び続け、枝分かれがない。ヤギ亜科の角の基本形は三角錐で、3点の成長速度の違いで変形する。シカ科はいわゆる枝角で……云々」という長い解説文をわずか7文字に置き換えた言葉です。動物の角の多様な生態を、音や様子、状態などを真似するオノマトペに凝縮しました。もちろんこれだけですべてを伝えることはできませんが、展示に訪れた子どもたちからも大人の方々からもポジティブな反応がたくさんあり、生物多様性を直感的に伝え、人々の好奇心を引き出し、より詳細な知識への入り口をつくれたのではないかと感じています。

そして現代以前にも、「言葉ざわり」を実現していた優れた言葉の使い手がいました。詩人で童話作家の宮澤賢治の「雲平線(うんぴょうせん)」は、対象となるもののありさまの感触と言葉の感触を巧みに近づけている表現のひとつです。これは『春と修羅』という詩集の一節にある言葉ですが、一般的な辞書に載っている既成の単語ではありません。天と雲の境界線や、雲が果てしなく広がる風景を眺めたとき、「雲の地平線」や「雲の水平線」という比喩では表現しきれない感覚を抱き、それを身体ぐるみで伝えるために作者が独自の言葉を創作したのではないかと想像できます。そのほかにも賢治は「どっどど どどうど どどうど どどう」「カプカプ」「ヒューイ ヒューイ」など、既存の言葉では捉えきれない感覚をオリジナルのオノマトペで表現することなども数多く試みていますが、プロンプトによって平均的で間違いのない文章を瞬時につくれるようになってきた今とこれからの時代には、その言葉が本当に自分の感覚を表現できているかどうかを常に問い、必要であれば「じぶん語」とも呼べる新鮮な言葉で感情や考え方を伝えることが、かえって重要になるのではないでしょうか。

未知の感触を言葉にする

言葉は、既に意識している感覚を言語化するだけではなく、これまではっきりと意識してこなかった感覚に気づき直すきっかけになることもあります。たとえば「翻訳」は、元になる言語の情報を別の言語で可能な限り正確に伝えるための行為ですが、文化的な背景が異なる言語同士の意味を寸分の狂いもなく言い換えることは実質的に難しい側面もあります。詩や小説などの文学的な言葉、あるいは企業やブランドのフィロソフィなど、論理だけでは表現しきれない感情や熱意を伝えるための言葉の翻訳においては特にそうです。そこで求められるのは、原文に近しい感覚や衝撃を別の言語でも感じ取れるように言葉を再創造することです。これを「飛訳」と名付けるとどうでしょう。「飛躍」という同音の言葉のイメージが重なってクリエイティブな翻訳が想起されたり、「飛訳家」という独自の職能を発信したりすることもできますし、既にそれを実行してきた人に対しては、あらためて自覚と誇りをもたらすことができるのではないでしょうか。

「I La La La You」もそんな未然の感覚の芽生えをめざした言葉です。六本木ヒルズ、虎ノ門ヒルズ、アークヒルズ、麻布台ヒルズ、表参道ヒルズの5つの文化商業施設が連動で開催したクリスマスキャンペーンのためにつくったこのコンセプトワードは、「鼻歌」を動詞として用いています。「La La La」というほとんど世界共通の鼻歌のオノマトペを動詞にすることで、ヒルズに訪れる多種多様な国々の人たちを言語や意味をこえたよろこびの感覚でつなぐことができるのではないかと考えました。「La La La」は、Loveでもあり、Likeでもあり、読み手が相手を思いやるあらゆる動詞でもあります。多彩な感情を受け入れるやわらかな言葉によって、ひとつのメッセージに収めきれない個々の人々の感覚を引き出すことを試みました。

言葉を発明する

私たちが普段何気なく使っている言葉は、長い歴史の中で削られたり磨かれたりしながら生き残ってきた逞しくもしなやかな言葉たちです。その語源を調べるほど意味も形も音も熟成されていて、それぞれの言葉をつくってきた先人たちへの敬意と畏怖の念が膨らむばかりです。

同時に、平安時代と現代の言葉に違いがあるように、言葉は時代とともに融通無碍に変化するものでもあります。もちろんその変化は自然発生することが摂理であって、誰かが恣意的に手を加えることが必ずしも良い影響を与えるとは限りません(人々の意識をネガティブな方向に誘導する恐れもあります)。一方で、明治時代の言文一致運動のように、言葉の発明が時代を次の次元に進める契機になることもまた事実ではないでしょうか。

日本デザインセンターは、「本質を見極め、可視化する」ことを標榜するデザインの会社です。社会の大きな潮流や、その渦の中で生きる人々のささやかな営みをつぶさに観察し、そこに潜んでいる本質を、ビジュアルはもちろん「言葉」という形で可視化することもデザインの重要な役割だと考えています。この構想を担当した磯目ことば研究室では、これからも「言葉ざわり」をひとつの視点として「世界の手ざわり」と「言葉の手ざわり」を一体化することを試みながら、生身の私たちを動かす「身体のある言葉」の可能性を手探りしつづけていきます。

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Written by
磯目 健 (磯目ことば研究室)

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