’86
ザ・ブレンド・オブ・ニッカ

一貫したブランドアイデンティティを示すパッケージデザイン

CL ニッカウヰスキー CD・AD 清野 嘉平 AD・D 佐々木 豊 PR 児玉 圭文

ニッカウヰスキーのパッケージデザインは、「ニッカ シードル」のラベルデザインから始まった。社内コンペの結果、原研哉のデザインに決まる。当時、NDCには70人を超えるデザイナーが在籍している、このスケールメリットを人材発掘も兼ねてたびたび活用した。その後は、ウイスキーからブランデーまでニッカの主要商品の多くを手がけることになる。なかでも、「ザ・ブレンド・オブ・ニッカ」(以下ザ・ブレンド)はブランド戦略の中心的商品で、そのパッケージデザインはその後の、ニッカのパッケージデザインの方向を決定づけた。素朴で肉厚な瓶、そこに最小限のシンプルなラベルを貼るという表現は、洋酒デザインにひとつの潮流をつくった。

当時、ニッカは「ザ・ブレンド」に先立って、ウイスキー離れした若い人に向けたウイスキーを発売している。そのパッケージデザインは、従来のウイスキーの様式化された概念を全く覆したもので、一見、薬瓶のようなシンプルなボトルで、虚飾を排し品質をストレートに訴求している。この方向はノンブランド商品に始まるデザインの流れであるが、大きな反響を生んだ。別系統のウイスキーとはいえ二番手のプレッシャーを感じざるを得ない。「ザ・ブレンド」のターゲットは成熟したドリンカーで、ウイスキーのグレードも高い。当然、別な方向を探ることになる。シンプルなデザインのために捨てられた「ウイスキーらしさ」の概念を探ってみる。重厚なボトルシェイプ、高級感のあるラベル、昼より夜に似合う味わい深い存在感などのファクターがある。古いデザインにはそれなりの理由があり、さまざまな曲折を経た経緯がある。これらは酒の文化と歴史を支えてきたのだ。成熟したウイスキーを語るにはふさわしいではないか。これらのファクターにこだわることにした。だからといってシンプルさを否定したわけではない。酒には人との歴史の中で、情念と関わり合ってきた濃く奥深い、精神性のようなものがある。合理的であってもただ単純化しただけのシンプルさでは酒の魅力は語れない。むしろでこぼこ歪んだ個性的なシンプルさのほうが酒にはふさわしい。こんな想いに頑固にこだわった。

「ガラスらしさ」にこだわる……ガラスの特徴には、重い、割れる、透明、不均一などがある。これらは同時に欠点(透明以外)でもあるが、これがガラスの本質であり、自然のままの姿である。現代の工業技術はこの欠点を補う方向に進化している。人もモノも欠点を隠そうとすると必ず「らしさ」がなくなる。人もガラスもありのままが美しい。発想を逆転し、欠点を積極的に活かして重さにこだわり、重厚で肉厚な、四角いガラス瓶ができた。

「ウイスキーの見え方」にこだわる……瓶の内側はガラスの厚みが均一化せず、薄い部分と分厚い部分のムラが生じるが、不均一なガラスを透かして見る、ウイスキーの見え方にデザインの意図がある。半人工(半分手吹きに近い方法)のテスト吹きでできた瓶に、ウイスキーが注ぎ込まれて、不均一なガラスの厚みがつくる、琥珀色のうねりが、ガラスを透かして浮かび上がった時の感慨は忘れがたい。味わい深い存在感はここにある。

ニッカ シードル 1986
CL ニッカウヰスキー CD 清野 嘉平 AD・D 原 研哉 PR 児玉 圭文

左─ニッカ セレクション 1987
右─ニッカ グランデージ 1987
CL ニッカウヰスキー CD 清野 嘉平 AD・D 原 研哉 PR 児玉 圭文

「小さなラベル」にこだわる……テスト瓶ができた段階からラベルデザインの作業に入る。デザインは佐々木豊を起用する。歪んだ出来損ないの瓶を、若い感性がどう捉えるかに、興味と期待があった。ウイスキーの見え方を前面に押し出す発想から、当然ラベルは小さくなる、微妙なニュアンスで、ギリギリのサイズを決めている。

ボトルシェイプが品質にこだわるニッカの頑固さの表現であるとすれば、中身の品質感はラベル用紙が表現している。ダミーラベルはシンプルで明快、タイポグラフィに味わいがあった。テスト瓶に貼ってみる。小さなラベルが瓶全体の印象を引き締めて、素朴なシンプルさをいっそう際立たせた。この後いくつかのハードルを越えて本機生産となる。

「ザ・ブレンド」シリーズのデザインは原を起用した。彼の酒へのフィロソフィが、マテリアルやタイポグラフィへの独自のこだわりとなり、表現を個性的なものにしている。CDとして原、佐々木両氏の起用は、価値観を共有できたからにほかならない。

清野嘉平(きよの・かへい)
1929年埼玉県生まれ。桑沢デザイン研究所リビングデザイン科卒。亀倉雄策デザイン室を経て、60年NDC入社。主として、トヨタ、アサヒビールを担当。パッケージデザイン研究所を経て、98年退社。