ギネスブックに申請しようか、という冗談が出るほどに、30年間、ひとつの美術館のポスターをひとりのデザイナーが手がけている事例はほとんどないだろう。
富山県立近代美術館は1973年に設立準備が始まった。富山という地は美術評論家で詩人の瀧口修造の出身地である。県立美術館構想は、当時の県知事が瀧口氏に相談し、朝日新聞学芸部美術記者だった小川正隆氏(元美術館長)を館長に迎えようというところから準備が整い始めた。
当時、美術館でもCIの必要性が話題に出始めてはいたが、どの美術館でも、本当に一貫した美術館の顔は成立していなかった。美術館が地方に密着して、その存在を全国に発信していくためには、美術館のデザインポリシー、アイデンティティを持たなければならない。美術館のポスターはアイデンティティ確立のために最適なメディアであるにもかかわらず、多くは、展示品の写真の下に文字が入っているという定型のもの。企画展示ごとに企画に合ったデザイナーを選定しているのも、アイデンティティ構築という観点からみれば、ぶれにつながっている感も否めない。
小川氏は、せっかく自分が館長になるのであれば、最適なデザイナーを選んでアイデンティティをつくっていきたい、それが美術館のブランド価値につながると考えていた。美術館のロゴマークの審査のために同席し、その手直しを手がけたことから、私がその任を引き受けることになった。
その時に話し合ったのは、いくら顔づくりといっても、展示品の写真と文字だけで構成するのはやめたいということだった。
要するにポスターに写真を掲載したからといっても、美術館に行けばその作品はあるわけで、印刷物は現実の作品にはかなわない。むしろ、永井一正という作家の特質を使って一貫性を出すことで、富山県立近代美術館の顔をつくるのはどうかということだ。そして30年余。200点以上のポスターを制作してきた。個人の作家性を打ち出したアイデンティティ構築は美術館では皆無だったために、強烈なポリシーができあがっていった。
ポスターは、オリジナルな作品に出会う前の「前奏曲」ともいうべきものだ。いつ何をやるかという告知以外に、独立したアートとしても魅力的でなければならない。80年代に入ると、商業的な広告ポスターが全盛時代を迎えた。60年代からNDCや私達が手がけてきた、極めて造形的な、グラフィックを使ったポスターがかえって珍しく思われる時代となってきたということもある。












