’76
トヨタ自動車 「マークⅡ・5人の会」

新しい知識層をターゲットにした広告戦略

1976 CL トヨタ自動車 CD・C 梶 祐輔 AD・D 田中 博、 上原 昌 P 岡田 正洋 AG 電通

1976年12月、このキャンペーンの対象となるマークⅡは三代目として登場するが、同年7月には外部関係者もトヨタ自工の発売準備会で実車を目にしていた。当時、トヨタ自販は広告キャンペーン・システムを採っており、早々にプロジェクトチームが編成され、外部2社(電通、日本デザインセンター)と長期を見据えた企画が練られていった。この3社のリーダーによる会議は連日のように行われ、8月には次のような共通認識と合意が成り立っていたと聞く。

(1)NEWマークⅡはそれまでにない高品質車で、商品で勝負できる。タレント路線は棚上げして、モノ訴求の展開を図る。

(2)ヨーロッパ調セミクラシックの外観は、欧州車志向の強い知識層へのマークⅡ拡販には大きなメリット。スタイリング訴求と知的アプローチを表現の基軸とする。

(3)ファミリーカーイメージを払拭し、高級オーナーカーの位置付けを明確にするため広告表現からコロナの名称を消す。

(4)必須課題として、鮮度とインパクトと話題性のある広告表現上のシカケを探す。これらの枠組み条件を満たす手法として、紆余曲折はあったようだが梶祐輔氏の主導で「マークⅡ・5人の会」なる不思議な第三者機関の立ち上げに辿り着いた。キャスター的立場で発言するこのグループは覆面ではあったが実在し、メンバーはテストコースで試乗し、意見を交わし、その討議の結果が表現の質を整え紙面となった。12月末「5人の会」告知で立ち上がったこの一連の独創的なクオリティ広告は、発売告知の類型を破ったものとして注目された。

しかし、このキャンペーンの本舞台は、ヨーロッパ文明を題材にしたフォロー展開にあったと思う。文明をごく日常的な事象で捉え、それとの対比の中で商品性を浮き彫りにして思考を促す。その視点は車の真価を問うそれと合致していた。

紙面構成では「5人の会」の「語り」とメーカーメッセージを分離することにより、会の存在の信憑性を高め、「語り」の持つ知的な格調の助長を図った。

1976 CD・C 梶 祐輔 AD・D 上原 昌 C 川崎 仁志 P 岡田 正洋 AG 電通

1976 CD・C 梶 祐輔 AD 田中 博 D 上原 昌 P 岡田 正洋 AG 電通

第一弾「車のないベニスで、車のことを考えました。」は展開の骨子を語るプロローグであった。ベニスは車の真価を見つめ直すには極めて象徴的で、これ以上の舞台はない。梶氏のヨーロッパ編構想の出発点は、まさにここにあったように思えたが、実際撮影で現場に立ってみて、その思いは確かなものになった。小路に人影は見えないが、人の声が聞こえてくる。チャプチャプと水音。ゴンドラが水路の交差点にさしかかると船頭は「ホーイ」と声を上げる。衝突や接触を避けるためだ。それが遠く近くこだまする。実に静かだ。車という利器を手に入れ、失ったものがある。否定すべからざる利器─車。その今後に求められる真価とは。否応なく考えさせられる体験であった。

この後、「静かさと、おとなの文明。」「石畳の道。」「鏡と車と個人主義。」「見ると見られる」と続くが、全編を通じ梶氏の「語り」は読む人をさりげなくマークⅡの商品性に誘導し、素直に商品情報を読ませる力を持っていた。この5回の掲載を終え、安堵感と満足感と惜別感と複雑な思いで私はデザイン担当を交代した。

この「5人の会」キャンペーンはその後、かたちを変えながら4年に近いロングランとなったが、特筆すべきことは、日本車では難しいとされていたインテリ層オーナーを飛躍的に拡大させたことであろう。

筆の終わりとなったが、1976年11月、作業のさなか、トヨタ自販のリーダー田口正則氏が持病に過労が重なり、35歳の若さで急逝。また、梶祐輔氏も2009年10月、奇しくもNDC50周年を見届けたかのように鬼籍の人となられた。深い感慨をもって両氏に哀悼の意を捧げます。

*トヨタ自工、トヨタ自販
トヨタ自動車工業、トヨタ自動車販売の略。両社は1982年合併して現在のトヨタ自動車となった。

*3社のリーダー
トヨタ自動車販売 田口正則、電通 秋田昭慈、日本デザインセンター 梶祐輔

上原昌(うえはら・まさし)
1935年東京生まれ。66年NDC入社。トヨタ、ニコンを担当、CI研究所所長を経て、 95年退社。

1977 CD・C 梶 祐輔 AD・D 上原 昌 C 川崎 仁志 P 原 秀年、パオロ・ロベルジ、塗師岡 弘次 AG 電通

1978 CD・C 梶 祐輔 AD・D 上原 昌 C 川崎 仁志 P 原 秀年、塗師岡 弘次 AG 電通