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原デザインしないデザインの世界を切り開いて注目されているナガオカさんですが、今日はお互いが新入社員だった頃とか、NDCに入って何を感じて、どんなことをやらなきゃいけないと感じたかという、ひとつの自意識というか飢餓感の芽生えのような話を、ナガオカさんがNDCに入った経緯あたりから始めていただきたいと思っているんですが。
ナガオカ名古屋で喫茶店をやっていた時に、あまりにも客が来なくて、その暇な時に朝日広告賞にエントリーしたのが準朝日広告賞を獲ったんです。
紫牟田何年のことですか?
ナガオカ1989年です。僕、中学校の時からNDCに憧れていたんです。中学校1年生の時のクリスマスにサンタにお願いしたのが、雑誌『アイデア*』だったんですよ。親父が買ってくれて、それにNDCが載ってたんです。どの頁をめくっても、田中一光、永井一正……。履歴を見るとみんな「日本デザインセンター」って書いてあるから、これはもうNDCに入らなきゃいかん(笑)と中学校の時に思っていたんですよ。
高校卒業して社会人になって、いろいろあって名古屋に戻ってきて喫茶店やってた時に朝日広告賞を一緒にやったコピーライターの百武清隆さんがこの話を散々聞いていたから、「おまえが入りたいっていう会社にいる知り合いを知ってるぞ」って言ってくれて、銀座に出てきた時に百武さんと僕が会ったのが、原田宗典*さんと原さんだった。
ここだけの話、どっちが原さんか分からなかった(笑)。それくらい緊張していた。それで僕は原田さんが原さんだと思ってポートフォリオをずっと見せ続けてて、そしたら原さんが、「僕にも見せてよ」って(笑)。
原当時原田はコピーライターをやっていて、百武さん経由で「準朝日広告賞獲ったおもしろいのがいるので会ってもらえますか?」って話があったわけです。で、ナガオカさんのポートフォリオを見たわけですよ。広告賞をもらった新聞広告も着想は良かったし、定着も綺麗だったんだけど、そういうことよりもアイデアスケッチをいっぱい持ってきたのに感心した。アイデアをポンチ絵にして持ってる人ってあんまりいないっていうか、そういうところにナガオカケンメイの才能がもうすでに発露されているっていう感じだったな。
NDCっていうのは、デザインを考えていく会社だから、デザインに対して意欲があって、アイデアがあって、才能がある人は当然入社すべきだと思ってしまうわけです。僕も実は正門から入ったわけじゃなくって、中途採用で入っているんです。会社っていうのは、別に正しい門から入らなくっても入り方はいっぱいあるだろうなっていうことを思っていたので、もうその日に……。
ナガオカそう。その日にですよ。
原永井さんに会ってもらったんですよ。ナガオカさんに会った喫茶店が会社のすぐ近くにあったし、たまたま永井さんがいらして、ちょっと才能ありそうなのがいて入社させたらどうかと思うんですけど会ってもらえませんかって……。それでわりとスムーズに決まったんですよ。
ナガオカ15分以内くらいで(笑)。で、君はいつから来れるかなって。
原その後、もちろん社内的には役員会議で議論したりしたと思うけれども。
紫牟田それですぐに原さんと仕事を始めたんですか?
ナガオカ最初は、野村證券、野村不動産の仕事かな。
原当時ナガオカさんがつくったラフ覚えてる? でっかい15段に「株式」って文字だけの広告。
ナガオカははは(笑)。いいデザインだった。
紫牟田それは採用されたんですか。
ナガオカ当然不採用(笑)。
原梶さんと揉めてたよね。とても生意気で身のほど知らずだった。見ていてもうハラハラするわけです。僕も責任の一端があるなと。ナガオカケンメイの持っている理不尽な自信というものが本当にすごく鼻につくというか目立っていて、それがどこから来る自信か分からないんだけど、本人はとにかく不満と確信に満ちていて。そこからにじみ出てくる仕事に対する不遜な態度というものが常にあったよね。
ナガオカはははは(笑)。
紫牟田でもその頃ナガオカさんは、やりたいことがあって、アイデアをいっぱい持っていたわけでしょう。それをすぐにでも実現したい、っていう焦りがあったんですか。
ナガオカそうですね。僕25~26で憧れのNDCに入り、その150人くらいいる中で才能のある人と才能のない人が見えてしまって……。そこがいけないんですよね、きっと(笑)。才能がない人に新人扱いされた時に立場をわきまえない、生意気な感じ。そういうこと、原さんはたぶんハラハラされてたのかな、と思うんですけど……。
原それは雰囲気として伝わってくるから。それで責任を感じたわけじゃないんですが、ちょうどその時、原デザイン研究室という部署を社内につくるという話が持ち上がっていた。僕も微妙にそろそろ独立モードっていうか、その当時は伊勢丹のチームのCDとして仕事をしていたんですけど、そろそろ自分だけで仕事をやろうかなって思い始めていたんです。当時、中川憲造さんがNDCグラフィックスという独立した部屋を持っていたので、どんなかたちにしたらいいでしょうかって中川さんに相談に行くと、「研究室つくればええやん。応援するで」(笑)。それで、ああそういうことができるのかなって思って。ナガオカさんとかも誘って部屋をつくるのもいいかなって……微妙にナガオカさんをNDCに入れてしまった責任も感じてたし(笑)。
それで、研究室をつくろうかと思ってるんだけど、ってナガオカさんに相談したんですね。どんな部屋にしようかって。具体的に壁をこう仕切ってとか、本をいっぱい詰めようとかいう具体的な話までして。
会社のほうも僕が辞めてフリーランスになるより、会社の中で独立したらどうかって当時の鈴木松夫会長が言ってくれたんですね。今思えば不思議な会社だとも思うけど、社内でフリーランスになれたわけです。とにかくNDCが受ける仕事じゃなくて自分だけの仕事をやるところをつくろうと。井上幸恵とナガオカケンメイと当時新人コピーライターの生駒典子っていうのと4名で、ちょうど3月1日の創立記念日から始めたんです。スタッフの袖机をゴロゴロ引っぱって移動させたのを覚えている。こいつらの机を置いて、この4人でやるんだっていうのをすごくしっかり意識してたのを覚えてるなあ。
紫牟田その頃私は美術出版社で『デザインの現場*』の駆け出しの副編集長になって、鵜木恵子という編集者が原さんが連載したいって言ってます、と言ってきたのはその頃かな。とても狭い部屋に打合せにうかがったのを覚えているんです。1993年でしたでしょうか。
原そう、93年です。来てくれた時はふたつ目の少し広くなった部屋だった。最初はコピー機が置いてあった本当に狭い部屋だったからね。
で、とにかく、原研究室を立ち上げたばっかりで暇だったんですよ。今と比べると圧倒的に暇で、打合せするにも会社じゃなくてディズニーランドのあたりに行ってみようとか、横浜のみなとみらいなんかに行って気分を変えて打合せをやろうとかね。「コンプレックス・プール」っていうデザインシミュレーションをやろうという話をしたのは、横浜のインターコンチネンタルホテルのロビーだった。「打ち上げ花火」をデザインしたらどうだろうとか、新しい「ボールゲーム」をデザインしたらどうかとか、「お米のパッケージ」はもう少し戦略化したらどうだろうとか、いろいろなテーマを考えて、そのつど挑戦してみるわけです。こんなデザインができるんじゃないかってデザインをつくって、機能しているシーンなんかも想像しながらシミュレーションする。全くお金になんないことを結構本気でやる。隔月刊だから2か月に1回ね。
紫牟田そう、アイデアをかたちにする。調べてデザイン提案する。狭い部屋でしたけど、その分、みんなが打合せに参加するみたいな、とてもいい部屋だと思いましたね。実を言うと、あの連載を通じて、デザインって表面的なものではないということを実感したんです。もちろんデザインは好きでしたが、デザインが考え方だということをものすごく感じて、デザイナーではなくてもデザインできるかも、という端緒をもらったきっかけになりましたね。最初の連載で「大人の屋上」の話をしていた時、ナガオカさんが「屋上開発研究会というのがあるから行こう、ここに直に行かなきゃダメだよ」って言うので一緒に行った。そういうデザインにおける調査力も勉強させてもらった。
ナガオカそう。行きましたね。
原ナガオカさんは、ほとんどそういうことやってましたからね(笑)。僕と井上幸恵は真面目にAGFのパッケージの仕事とかもやっていて。今でも原研究所を支えてくれているのはAGFというクライアントです。ここのクライアントの言うことだけは、僕らはちゃんと正面からしっかり受け止めて聞く。つまり、マーケティングには一切口出しをしたりしないで、マーケッターが示してくるデータを真っ当に理解して、長年連れ添ってきたプロフェッショナルとしてパッケージデザインをひたすらきちっと提供するということを今でもやっているわけです。もちろん、ちゃんと僕らのデザインの方向性を認識してくれて、早くから仕事を出してくれた稀有なクライアントであると同時に、コーヒーだけを専門的にやっているということを僕らはとても尊重している。
でも、そういうこともやりながら他のこともやらなきゃと思っていた。ナガオカさんはもっぱらそっち方向の仕事を担当していた。朝はもうどこ行ってるかも分からないし、タイムカードも押さないで、どこかに行っちゃう(笑)。
ナガオカ遊んでるわけじゃないんですよ。とにかく何かおもしろいものを見つけてきて、夕方に原さんのとこに来て、今日こんなとこに行ったって話をして。しかも毎月、自分で勝手に報告書をつくって。
原ナガオカさんが「デザイナーにもワープロが必要だ」って言うんですよ。当時はひとり1台パソコンがなかったのかもしれない。とにかくナガオカさんにワープロを与えていたわけ。そしたら行間の狭い細かい字でね、びしーっとやたらと文字の詰まったリポートを持ってくるわけ。
紫牟田その時、ナガオカさんは何を考えていたんですか。
ナガオカデザイナーには、プランニングが絶対必要だと。NDC=造形。僕も造形に憧れていたし、原さんの、コマーシャルフォトに載っていたすごく小さな「TAKEO PAPER WORLD」のB倍のポスターにすごい感動したのを覚えてるんですけどね。自分もポスターつくりたいみたいなことで入ったのかと思いきや、入ってからはプランニングにすごく興味が湧いて、たまたまプランニングのことを全開にしてたら、原さんが「じゃあ、そっちをやってみたら」って。だから僕、本当にデザインの仕事してないんですよ(笑)。ずーっとプランニングして報告書書いて、っていうのを勝手にやっていた。
その中に「コンプレックス・プール」っていう連載があって、僕からしてみたら、「原デザイン研究所=『デザインの現場』の連載」っていうのは、とってもいい課外活動になっていて、普段造形でしか表現できないことを人に分かりやすい言葉と、最終的には誰でも分かるようなシミュレーション─かなり精度の高いシミュレーションに落としていって。自分達としては、これを見たらその関係の人達が絶対に声を掛けてくるに違いないっていうところまで詰めるという……。まあ、僕は詰めが甘いんで、プランニングの途中まで原さんと一緒にやって、原さんが詰めるんですけど。
これが辞めてからのナガオカって人間の形成の原点になっているし、僕としてはNDCにそういう部署があったらいいなってその時からずーっと思っていたんですね。
原ナガオカは「外回り」で、僕が「デスク」みたいな関係だったけど、でもね、当時からふたりともすごく文章を書いていましたね。僕もワープロは自分でも持ってたし、僕ら圧倒的にテキストを書いていたよね。企画書を書く仕事が多かった。竹尾のペーパーショウも企画書の連続だし、ひたすら企画書をA4に書いてね。
確か1回、上手に企画書を書く研究をしたよね(笑)。上手な企画書をちょっと探して持ってきたりだとか。企画書で使える矢印の位置も研究したよね。次にこうなりますってページをめくる時に、一番後に文章が来ちゃうと良くないから、最後は矢印にして終わる。そうすると次をめくるときめきがあるっていう(笑)。そんな細かいことも含めて。すごく真面目に、人が分かりやすくなるにはどんな企画書を書いたらいいのかっていう、結構な課題でしたね。
松屋に「大人の屋上」を提案した時には、ナガオカさんの絵で絵本にしたんですよね。大人の屋上が松屋にあったらどうなるでしょうか。もちろん人気があるから行列ができます、なんて行列ができる絵を描いて。あるいは、タクシーで移動しながら「もしもしナガオカですけど、大人の屋上の『あずまや』を予約できますか」って電話しているシーンを、ひたすら全部ポンチ絵風、漫画風に描く。それが小さい本になってて、企画書の一部になる。ひたすら図面を描いて建築模型もつくって。プレゼンに行こうってことになって……。
ナガオカそう、僕が模型を持って。
原我々ふたりだけだと怪しすぎるので、永井さんにもプレゼンに参加していただいた(笑)。当時はまだ、「オープンエア」って言葉がなかったんです。ウォーターフロントって言葉はあったから、スカイフロントとかエアフロントっていう空に面した場所を考えようかって。つまりビルの面積だけ屋上はあるはずだから、それをやろうって言ってね。
「大人の屋上」の場合は、さらにいろいろなアイデアの肉付けがあったんですね。一般的にはホテルのフロントフロアはホテルの大半のサービスの機能が集約されていて、だからフロントフロアのサービスがとても重要です。そこでお客様へのサービスを仕切っているのがコンシェルジュですね。百貨店の場合は、1階のフロントフロアっていうのは、たいがい化粧品とか香水とかわりと決まりきった仕組みになっているんだけれども、本当は百貨店の1階もホテルのフロントフロアみたいになってると気持ちがいいのにねと。それができないなら、それを屋上に持っていったらどうだろうかっていうね。そういうことを大きくは提案したんだけど、百貨店は簡単に動かない。屋上って案外複雑で神社もあるし、オートテニスもあったし、乗り物もあれば、ペット売り場も盆栽売り場もあるわけですよ。だから結局は全然進まなかったけれども、僕らが提案したことが、その後百貨店の中でいろいろなかたちで見られるようになった。例えば「百貨店コンシェルジュ」を配したデパートが出てきたり、屋上に喫茶店ができてきたり、つまり隙間から本質を見ていくっていう風潮っていうのが、どんどん社会の中に起きてくるわけです。そういうことの発端は、あの「コンプレックス・プール」にあったように思う。
紫牟田そうですね、少し早かったなと思います。ちょうど2000年頃が日本のデザインの中でそういう考え方をしようという若い建築家やプロダクトデザイナーが出てきた時期だと思います。ナガオカさんがD&DEPARTMENTを設立したのも、原さんが「RE DESIGN 日常の21世紀」展を行ったのもその時点で、おふたりにすればある意味集大成だったと思います。
ナガオカすごいその話いいですね(笑)。そうか、それくらい大きかったですよね。
紫牟田ナガオカさんにとってはどうだったんでしょうか。連載2回目「すきま広告」の後、退社されましたよね。
ナガオカうん、あれで自分は何なのかさらに分からなくなったんですよ。会社的にはグラフィックデザイナーで採用されたけど、自分はどうもグラフィックデザイナーじゃない。「造形しないデザイナー」っていう職業はないだろうと。だからNDCを辞めるまでの後半は、会社にとにかくプランナーっていう部署をつくってくれと言ってました。唯一の理解者が原さんで、辞める1年くらい前に、プランナーだかっていう肩書きがギリギリ許可が出そうな状態だったんですけど。
原原研究所っていうのは原研哉の独立オフィスみたいなものなんですよね。だから、優秀な部下が育つとやっぱり離れていかざるを得ない。そういうタイミングってあると思うんですよね。ナガオカさんの場合もその時が独立するタイミングだったんだろうなって思います。
ナガオカさんが辞めた理由はね、僕がファッションはやらないって言ったことが発端なんですよ。ファッションというのはトレンドビジネスだからあまり興味がなかった。ファッションのデザインに関しては、僕は食指を動かさない。ナガオカさんにとってはそれがひっかかりとなって、ファッションは自分の中で大きいと、それをボスが目指さないなら自分と方向が違うかもしれないと。それがひとつのきっかけだったと思う。まあ理由は何でも良かったんでしょうけど。自分とは異なる才能を部屋で抱えているとすると、その人の才能を使って仕事するっていうニュアンスが少し出てくる。そうするとピュアじゃなくなるんです。そういう瞬間が必ずある。スタッフが自立していく潮時をちゃんと見極めていかないと人は育っていかないと僕は思う。
本当はナガオカさんもNDCの中で育っていければ良かったんだけれど、NDCっていう会社はやっぱり学校みたいなものです。だから、もう少し社会の中にNDCの成果を大きく見ればいいんじゃないかという気持ちがあるんですよね。デザインというものをもっと柔軟に捉えるって考え方があって、それがもしかして会社組織の中で機能しないんだったらもう少し広いところでやればいい。今ナガオカさんの会社は、もうNDCくらいの社員いるんじゃないですか(笑)。
紫牟田プランニングの重要性はますます増していて、コンセプトという核をつかまえるというよりもむしろ複眼的に全体を見据えるということが必要ではないかと思うんですね。私は会社ではプロデューサーという肩書きをもらってしまっているんですが、アイデアを風上とすれば、実現という風下までのプロセス、ストーリーをつくる際には、どんなものでも「編集」を意識する。モノ・コト全てのプロセスを編集するというスタイルで対応しているわけですけど、ナガオカさんはどうですか。
ナガオカ原研究所で僕も一番影響を受けたし、特徴にもなっているのが展覧会をして書籍化するっていう原さんのスタイル。僕が辞める時にね、原研哉の影響なんて絶対受けてないって飛び出したくせに、ものすごい影響を受けていることに4年後くらいに気がつくんです。
紫牟田遅いですね(笑)。
ナガオカすごい、すごい遅い(笑)。ポスターつくるだけじゃなくて、エディトリアルやCIができるだけでもなくて、展覧会というスタイルで一定の関心のある人達を集めながらその企画の意図をちゃんと説明し、次につなげる状態を準備して、なおかつそれを本にして書店に平置きに並べて、不特定多数の人に買ってもらえるようになるところまで落とすのって膨大な作業です。僕は今はデザイナーをやるのであれば、最低、これだけはできなければいけないと思っているんです。まあ、それ自体がとても高度なことだとは思いますが、それを「竹尾ペーパーワールド」の時から原さんはやっていた。僕最初、原さんがB倍のポスターをつくりたいからやってるのかなと思っていたら、実はよくよく観察していると違っていて、まず竹尾って会社のところからズバッと入って行く。僕はそこは正直ついていけなかったんですよ。竹尾の会社ポスターとかペーパーショウの会場の構成したり、グッズをつくったりすることだけに原さんは関心が行っているのかなと思っていた。逆に言えば僕の関心がそこだけにしかなかったからなんですけど、辞めてからよくよく考えてみると、原さんは、最初から竹尾って会社がどうあるべきかっていうところから差し込んでいって、そこから企画や会場の場所を決めることまで設定していって、どんなポスターが必要で、どんな集客をしなきゃいけないか、どんなテーマにしなきゃいけないか、それで最終的にグラフィックが現れるというのが当初から原研究所にあった基本的な考え方だったような気がします。
原一番初めはやっぱりポスターをつくりたかった。永井さんみたいなポスター作家になりたかったから、一生懸命展覧会の企画書を書き、あらゆる企画を提案し、展覧会を設計した後にポスターをやっとつくれる。で、初年度1枚のB倍のポスターをつくったわけですよ。展覧会も成功したし、うまくいった。それで次の年の仕事がまた来たわけ。「頑張ればまた1回ポスターつくれる!」とまだその時思ってて(笑)。
ナガオカ(爆笑)
原ペーパーショウを契機として制作したポスターで2年続けてADC賞をもらったという事実よりも、プロデュースという全体視野を持つ意識のほうが主流になるくらい、その裏側に芽生えていたものが大きかった。2年目くらいからプロデュースに感染してしまったんですよね。自分が企画書を書き、3日間で1万人近くのお客さんに接すると、少し何かが見え始める。お客が来て、それが竹尾という会社の経営資源をつくっていくエネルギーになり始めているということに気がついた瞬間に何かがちょっと変わった。企画の内容、その企画を通す以上は企業の本質を考えなきゃいけない。見本帳戦略から紙商品そのものの制作、それをお客さんに使ってもらうまでの仕組みを全部考えて、最後にペーパーショウの位置づけをやらなきゃいけないんですね。やった成果としての、展覧会はわずか3日間で終わってしまうものだから世の中により長くそれを滞留させていくにはと考えると、やがて書籍や、今だとウェブ情報を展開しておく必要があるんです。
デザイナーっていうのは、多少文章が書けたりコミュニケーションができたほうがいいんです。ナガオカさんに言わせると「喋りもできなきゃだめだぞ」って僕に言われてたってことだけど(笑)。建築家がそうですよね。あれだけ大きいプロジェクトをやるっていうことは、世の中に建築プロジェクトを環流、定着させていく解説能力が備わってないと。造形だけの建築家っていないでしょ。そういうことも本質的にはデザイナーにも必要なんですよね。造形だけやればいいっていう風潮の中にデザイナーが埋没しかかっていたと思うんですよね。
これからますますそうだと思うんですけど、メディアなんて何がメディアかなんて分かんなくなってくる時に、メディアもさらに編集していきながらつくっていけると、デザインを監修できる人がそれもやっていく。デザインというのは、概念としては広告より断然幅が広いんですよね。
ナガオカ今もそう思うけど、さっき原さんが言ったように、独立してしまうと食べるために仕事しなきゃいけないじゃないですか。維持管理費もかかるし。でもデザイナーって個人的には、提案する職業で仕事をする職業だと思うから、このふたつが万遍なくずっとなければいけない。仕事ばっかりしてるデザイナーを見てても、あれ、ただ仕事してるだけじゃんって思うんですよ。やっぱり稼いだお金で提案しないといけなくて、お金にならなくてもものすごいパワーで提案する仕事。あの連載があったから、たぶん原さんの中にも蓄積されたのかもと思います。今、お米のパッケージの頁とか見ると、ジャパンブランドの今の状態と思いっきりかぶってるし、あれが十何年前に書かれたとは思えない。デザイナーの立ち位置よりも自分で仕事を社会に意義提案しながら、獲得していくという姿勢でしたね。
紫牟田そうですね。提案性こそデザインの仕事だという感じでしたからね。
原ナガオカさんがもう1回NDCに入りたいって話してくれた時、僕、感激しすぎて無視したんだけど(笑)。
ナガオカ僕にとっては、NDCは憧れが本当に強すぎて、永井さんのマークの入った封筒を、地下鉄の中でロゴが見えるように持つのにエネルギーをかけてたくらい(笑)。それくらい好きだった。
今のNDCに必要なのは、編集だと思うんですよ。デザイナーもコピーライターもカメラマンも編集って観点がないと、今や世界を渡り歩けないから。そういう意味で、例えばロゴマーク。昔だったらガンガンマーク見せて威圧的でもいいけど、今はそのマークがなぜ3,000万円かかるのか、その理由を説明できないといけない時代だとしたら、その説明の仕方にも品質が必要で、そういう編集作業みたいなものが常日頃必要で、そういう新しいセクションみたいなものが必要だと思うと、自分もそこに参加してみたいな、と単純に思ったわけです。
僕が最終的にお店をやったのは、デザイナーは最終的に「売る」っていうものすごく泥臭い部分、この先は消費者のわがままやクレームや返品や修理とかしかないんですけど、その部分に関しての説得力がある程度の規模のデザイン事務所になってくると必要なんです。その説得力としてやっているんです。
紫牟田デザインしても終わらないという感覚はすごくありますよ、とくにものづくりのプロデュースには。どう売るか、どう継続していくかの仕組みづくりですね。
ナガオカ1995~6年くらいの時期って、海外のデザインユニットは商売人でしたからね。TOMATO*みたいにミュージシャンにくっついて、プロモーション以上にライブの動員までしてしまうっていうかっこ良さがあった。今の時代はドラフト*みたいな、グラフィックしてお店持ってグッズつくってというスタイルがひとつのスタイルとして完結しているけど、その流れのさらに進化系っていうのが何かあってもいいかなと思う。僕はそこには参加したいなと思った。僕はそれくらいしか役に立たないから。僕が日本デザインコミッティー*に参加しているのはそこだけなんですよ。コミッティーが「売る」ということに興味がなかったら、いつでも辞めたいし、「売る」ということに興味ありそうな気配を感じ始めたから僕がいるわけで、僕にはそれしかできないから。
外に出た人間から言うと、原さんは展覧会をつくってそれを書籍化して価値を流通させていく。そうするといろんな人が手にとって読んでくれる。でも、もっと末端の生活者って、生活用品を買うっていうとこにいくので、デザイン事務所のブランディングとしてものを売るっていうことをベタに議論していかないといけない。NDCグラフィックスはそういうことをしていますよね。彼らは先駆けで、僕にはすごく刺激的だったんです。その進化系みたいなものが、次のNDCとして出てきてもいいかなっていうのはちょっと思います。CDレーベルができるのか、FMラジオの枠を獲得するのか、美術館みたいなギャラリーつくるとか、映像のギャラリーつくるとか。
原やっぱり受注作業としてやっちゃいけないよね。頼まれれば、きれいにできますっていうんじゃなくて。
大きな視点で言うと、産業のビジョンをビジュアライズしていくっていうこと。例えば、車産業の今のかたちを誰が構想したか、産業のかたちは常に変わっていって、車を販売すると同時に、保険や家を販売して、旅行代理店が関与するとか、ミシュランガイドをつくるとか、産業はリンクしていくわけだけど、今ある産業の次の産業のビジョンを誰が想像できるかっていうところにデザインの役割があると思う。日本は産業っていうのは外からやってくるものを受け入れて、車産業や繊維産業とかをつくったけど、その次のビジョンを提案していくっていうことがなかなかできない。そこをデザインがつくっていけたら強いですよね。だからそういうところを考えたい。ナガオカさんが言ったように、販売の
「コンプレックス・プール」的なことは、僕等の頭の中には常態化している。だから時々僕がボソボソって言うことを、それすごいですね、って言ってくれるのがナガオカさんなんでね。
ナガオカははは(笑)。お役所の企画書のタイポグラフィやレイアウトをなんとかしないといけないって話をした時も、本当にそうだよなって思ったし。
原会社というものは、不思議な連帯感がありますね。サイトウマコトさんにお会いして「おう、原くん! 最近どう?」と言われると嬉しいし。横尾さんですら、僕の本を読んでくれて、「いいよ、すごいテンション上がったよ」って言ってくれたりね。横尾忠則からナガオカケンメイまでのリンクっていう、それがNDCだと思うんですよね。NDCは、もう会社を超えているでしょ。
ナガオカ僕の中では、松屋のコミッティーなり、ギャラリーがNDCだと思ってしまうんですよね、なぜか(笑)。ああいうギャラリーみたいなものを東雲スタジオ*でもいいんですけどやったらどうですか。NDCの年齢っていうのをバシッと決めてっていうのがすごく大事だと思うんですけど。雑誌でも何でも編集長が年をとっていくと、どんどんターゲットをずらしていくじゃないですか。ある意味、編集長が死んだら雑誌は死ぬってことですよね。一体NDCは今何歳なのかっていうのを定義づける。そうすると当然それに合ったことをやりたくならないとおかしいでしょ。
例えばそれがすごく若くて、DJをしたかったら、NDCだってDJしないといけなくって、そういう場所があったらいいなって思うんですよね。そういう場所があって、そこはNDCのOBでも今のスタッフでも好きに企画して、勝手に使っていいと。その代わりOB基金とかつくって月1万円ずつ入れろとか。それで年間予算があって、みたいなのをやって欲しいなと思います。
原ナガオカさんにさ、NDCってこういうことじゃないですかってよく言われて。結構身につまされているんだよね。そうか、そういうこともあるなって思って。
紫牟田愛にあふれてますね。
ナガオカ無償の愛ですよ。NDCのために何かやれって言われたら、何でもやりますよ。
原それ、ちゃんと活字に残しておこう(笑)。最後の言葉「NDCのためなら何でもやる」。
2009年9月10日
















