![]()
![]()

平野私と仁科さんがほぼ同時入社。ただ立場が違っていて、仁科さんは大学を卒業して入ったけれど、僕は自分から電話をして、面接させてくださいと言って、まずアルバイトで入ったのです。工芸高校だったのですが、その頃からNDCに行きたいっていうのが夢だったんです。卒業後、2年間別の会社で仕事をしていたのですが、NDCに行かないと夢が叶わないという気持ちが強くて、電話しました。私はいい会社に入ればいい仕事ができると、ずっと思っていたのです。版下制作屋さんみたいなプロダクションにいて苦労していて、社会に出て自分は恵まれなかったという思いが強くて、藁にもすがる思いでNDCに電話しました。神様のおかげだと思うんですけれど、その時にサイトウマコトさんのアシスタントにしてもらった。サイトウさんはNDCでも異質な方で、「私はデザイン界の宮本武蔵だ」と言っていて、会社の人間関係をほとんど無視して、とにかく自分がデザインに対して力をつけていくと同時に、コンペで賞を獲ることを目標にしていた。「いい会社に入ったからといって、いい仕事ができるわけじゃないし、いいデザイナーになるわけじゃない」とサイトウさんにビシッと言われたんですよ。「いい会社にいたってお前が努力しなければ、いいデザイナーにはなれないぞ」って。的確に言われてしまったので、私もサイトウさんのようにやらなくちゃ、というのが発端ですね。その当時、そういうふうに努力している若い人たちが他にもたくさんいました。
仁科永井先生に作品を見ていただいたり、毎日広告賞や朝日広告賞に出すために徹夜で頑張ったり。勉強会もしてましたよね。休みの日に集まって作品について討論したり、遊んでるみたいなんだけど、ドライブに行って作品について言い合うとかしていて、なんかみんな一生懸命でしたよね。
平野切磋琢磨してたんですよね。学校みたいでしたね。
仁科当時は、自己表現をすることが一番重要なことでしたよね。私はインテリアデザイン出身で、永井先生の部屋のアシスタントになったんですが、本当に先生からクリエイターがどういうものであるかということ、クリエイティブにおいての直感力の大切さ、情熱、イマジネーションの力、創作の原点みたいなところを教わった気がするんです。私は当時から絵本作家になりたいという気持ちを持っていて、先生にもお話ししていたのですが、先生は「机の前にいたって、デザインなんて生まれない。映画だって、『あしたのジョー』も観ればタルコフスキー*の映画も観る……というように幅広く吸収し、時代を感じるために銀座を歩きなさい。ディスプレイ、ファッション、何にしても、行き交う人々の息を体で感じて、それをデザインに活かしなさい」と言われたのをよく覚えています。私が会社の時間中、仕事を済ませているからといって、そんなに自由にさせていただいていいんでしょうか、とお聞きすると、「クリエイターにとって自由であることは最低限の条件だ」とおっしゃったのね。「最低限の条件」とおっしゃった先生に驚き、はっとさせられました。それと、永井先生に作品を見せに来る人達の作品を、先生と一緒に見ることができたのは、アシスタントとしてとても刺激をいただいてありがたかったです。
菊竹作品を積極的に発表する人、コンペに挑戦する人、そういう同僚の姿に刺激を受けていました。私もなんとか自己表現していきたいと、当時もがいていたと思います。そんな中、永井先生や梶先生に作品を見ていただけたのは、今思うと本当に貴重なことでしたね。
仁科そうですね、当時、東京デザイナーズスペース*というのがあって、今週は誰々が個展してるから、オープニングに行こうとか、みんなで会社を抜け出して観に行きました。けれど、その後だんだん自己表現する人が少なくなり、ちょっと寂しかったですね。
菊竹私は大学で建築を学びました。建築の方向に行くか悩んでいた時期に、友人に薦められたのがNDCでした。
入社面接でご覧いただいたのは、卒業制作の建築の図面です。そんなことで野村不動産の担当になり、最初の仕事は、朝日新聞の天声人語を毎日切り取ってノートに貼ること。他に何もできることがなく、唯一「アシスタントとして最大限に頑張る」という目標を立てました。クリエイティブの階にコピー機が1台しかなかった頃です。「何パーセントのコピーをつくって来い」と言われて誰よりも早くコピーをとろうと走る。スタットやカラーキーをとるのも必死でした。それしか自己表現できないのですから……。
そんな中、プレゼンカンプの資料を集めることは楽しい仕事でした。小栗美子さんや中村槇子さんにずいぶんお世話になり、写真やイラストの資料を図書室で探すわけです。当時、終業時間後、図書室の鍵を借りた回数が、年間最多数だったのではないでしょうか。夜間ひとりで図書室に籠って格闘していました。仕事はもちろんですが、実は仕事以外にもいろいろな発見があって、本当にいい勉強になりました。今思えば、アシスタント時代も悪くなかったと思いますね。
余談ですが、図書室でアメリカの『GQ』に掲載されていたブルース・ウェーバーの写真に出会いました。私にはものすごく新鮮で、いつも彼の写真を眺めていたことを懐かしく思い出します。ある日、図書室がその『GQ』を手放すことになり、早い者勝ちで社員に譲られることを知りました。その日は一番乗りで勢い込んで会社に行ったら、他に誰も欲しいと思っている人がいなかったようで、私が何十冊もの『GQ』を手に入れることができました。その時いただいたブルース・ウェーバーの写真が掲載された『GQ』、今でも大切にしています。
仁科永井造形研究所は当時、先生がCDで、儘田能光*さんがADでした。そして私はアシスタントデザイナーですから、本来なら儘田さんの下で仕事をする立場であったのを、先生はいきなり私をADの立場での仕事をあてがい、一番初めにデザインしたのが、壁紙の会社のぶ厚いカタログでした。大泉の東映撮影所に行ってインテリアをディレクションしてスタイリストと打ち合わせ、土曜ワイド劇場かなんかを撮影しているカメラマンとか照明のおじさんたちを使って、20人くらいをまとめて、180カットくらい撮影したと思います。23~24歳で女性ですから馬鹿にされないように必死でしたが、そういうことはすごく力になりましたね。
菊竹社内では「女性だから」というネガティブな目で見られたことは一度もありませんでしたよね。
むしろ幸せなことにNDCでは、当時社内コンペが広く行われていて、若手にチャンスを与えていただけるのが仕事の励みになりました。そういう時、部の垣根を越えて、上原昌*さん、加藤巧*さん、中川憲造さんなど大先輩の方々と仕事をさせていただいたことが、今にも続くご縁の始まりだったと思います。
仁科女性だからの差別もなくて、実力主義だったし、頑張ってさえいれば評価されて、年始に表彰、金一封もいただけましたよね。
平野僕が社員になれたのは、コンペで賞をもらった後なんですよ。それまではアルバイト契約みたいなものだったんです。そうだ、ちょっと自慢話みたいになりますけれど、僕ね、NDCと同じ年なんです(笑)。で、自分が賞を獲った時にNDCの広告に出してもらったんですよ。僕が22歳で、NDCが22年目。
菊竹知らなかった!
平野偶然ですけどね、この広告の対抗頁に副田高行*さんがいるんです。サン・アドで副田さんがADC賞を初めて獲られた時の広告なんですね。副田さんは学校の先輩でもあるんですけれど、実は僕、NDCの後、仲畑広告制作所に行って、副田さんとまた一緒になるんです。なんとなく、不思議なご縁ですよね。
仕事を通じて、いろいろなご縁があったなと思います。サイトウさんが独立された後、野村證券のアニュアルレポートをつくっている時、写真家の大倉舜二*さんのところに写真を借りに行った。そうしたら大倉さんが僕のデザインを見て、『画家のおもちゃ箱』という猪熊弦一郎*さんの本を一緒にやらないか、と言ってくださった。そこで猪熊先生と出会って、それから先生が他界されるまでずっと仲良くさせていただいた。在籍中に突然、仲畑貴志*さんから「君に会いたい」と電話をもらって仲畑広告制作所に行ったのも、サイトウさんに触発され、永井先生にアドバイスをいただきながら出していたコンペの作品や、毎日広告賞の仕事が目に止まったからですよね。
結局4年くらいNDCにお世話になるんですけれど、サイトウさんに言われたことを自分なりに一生懸命やってつくった作品が、次の出会いをつくってくれた。作品によって、新しい出会いが生まれて、次の会社に行くことになった。NDCからいただいたご縁というもので、とても感謝しています。
菊竹私は5年ほど、NDCにお世話になりました。いつもどこかで自己表現が不完全燃焼だということに気づいた時、完全に自分の力を燃焼できるような場を探したい、そう思い始めました。無謀にも、後先考えずに勉強する道を選びました。
辞めた後、イギリスに行き、ペンタグラム*のアラン・フレッチャーさんのところで学びました。その後、建築家でありインダストリアルデザイナーであるアンジェロ・コルテージ*さんに出会い、イタリア・ミラノで学ばせていただきました。イタリアでは、建築家がデザインもサインもプロダクトも全て一緒に考えるんですね。一貫したものづくり、領域を超えたデザインのあり方を間近で見られたのが本当に良かったと思います。今でもたまにお目にかかって咤激励されています。
それでもまだ自分がやるべきことは見えてはきませんでした。ところが、1986年、パリの凱旋門の修復工事現場を赤白青のフランス国旗をイメージさせる幕で覆ったのを見て、衝撃を受けました。それは私の工事然とした養生幕の認識をはるかに超えて、パリの町並みを背景に、舞台装置のような光景をつくっていたからです。その時、「デザイン」と「環境」のあり方を考えてみたいと思う気持ちが心の中で沸き上がってきました。それが私にとって転機だったと思います。私でも何かできるのではないかと、若気の至りで思ったんです。
実際には、日本で工事現場の仮囲いのデザインをすることができるようになるまでいろいろな過程があったと思います。私のデザインの未熟さはもとより、屋外広告物条例という法律の壁、媒体効果を理解いただくまでの時間。永井先生にもずいぶん作品をご覧いただき、貴重なアドバイスをいただきました。思い立ってから数年の時間が経過し、試行錯誤を続けながら、仮囲いのデザインが認知されていく過程と、私のデザインの方向性がようやく見え始めたことがひとつのきっかけになって、今日に至るんですね。NDCで鍛えられたことが大きな力になりました。
仁科私は14年間永井造形研究所にいて、そこしか知らないので純粋培養的でした。最初からゆくゆくは、絵本作家になりたいと先生にお話ししていたわけですけど、当時、仕事と並行して自分の一番やりたいファンタジーの世界を表現するべく展覧会や雑誌連載を続けていましたが、連載していた物語が絵本になり、NHKで放映され、その後に、松屋銀座のクリスマスキャンペーン、森を守るチャリティブックとして「パップンピットのおはなし」をつくり、広告、ディスプレイなどで展開されていきました。会社から帰って絵や物語をつくり、いつも朝の4時半くらいに寝て会社に行く……という生活をしていたのですが、だんだんその両立ができなくなっていきました。もっといい絵やお話をつくりたいのに時間が足りませんでした。それが結局は、独立につながっていったのですが、独立したとたんに、ニットメーカーから「サチコニシナ」のブランドの仕事が来たので、絵の修練もその間にできました。永井先生のもとで学んだ想像力、直感力、デザイン力は、絵本や子どもの世界においての活動にも、幅広く活用することができています。広い視野を持って、子ども達の心の世界を生き生きさせてあげるのもデザインだと思うんです。今、年に10回くらいいろんな小学校で、心のワークショップを開いています。私の絵本を使って、その中の精霊になって踊ってみたり、雨の音の詩をつくったり……子ども達の世界にとって今一番欠けている、感性を広げる、イマジネーションの力を養えるようなワークショップです。学校の先生方もとても協力的なので、好きにワークをすることができます。こういう企画する力も、NDCにいてADをしたからだと思うんです。絵本作家の五味太郎さんもアートディレクターでしたが、デザイナーであったことが、絵本を本の範囲だけに留まらせずに、広げていけている気がします。絵本で言いたかったことの核の部分を活動で活かすような。デザイナーで鍛えられたことは、本当に良かったと思います。
平野僕は工芸高校の卒業で、大卒の方より早く社会に出たので、社会の中で勉強させてもらっている、という感じがすごくしているんです。それは今でも変わりません。出会う人によっていろんなことを教えてもらっています。NDCの時に永井先生、サイトウさんの教えをいただき、それから猪熊先生にも出会い、仲畑さんにも出会い、また猪熊先生を介して建築家の谷口吉生先生とも出会い、どんどん異分野の人たちと出会っていくという感じがあるんですね。そういう時にいつも僕は「空」の状態なんです。空っぽだから出会った人のものが入ってくる。仲畑さんのところに行ったら、仲畑さんの仕事のやり方、考え方が入ってくる。それを自分のものにしようとやっていると、また次の方との出会いがある。僕の場合はとても幸せなことに、それが全部つながっていくんですね。仲畑さんに教えてもらった広告の方法論は、その後のシンボルマークとか、サイン計画の仕事にも変換されて活きています。それが本当にありがたいなと思っています。
NDCって、会社っていうより広場のような感じがしますよね。それぞれの方が世界を持っていて、多様な花のある、広場だと思います。
仁科今、街に物語をつくることで街を蘇らせるプロジェクトが始まったのですけど、絵本から発信して観光の核になっているというのは、ドイツのメルヘン街道などではあるのですが、日本ではないんです。それを、平面から派生して街や空間に広がっていくというのも、おもしろいですよね。
菊竹仁科さんのご意見に大賛成です。ジャンルを超えてデザインを考えていくことに私も魅力を感じています。今、車両のカラーリングや座席シートのテキスタイルデザインの仕事をしていますが、未知の世界で驚きの連続です。車両製造に300日かかるってご存じでした? 車両メーカーにとっては部外者の感性が新鮮に感じられることもあるようですね。お互いに刺激を受け合い、そこから新しい表現が生まれる。それが面白いことですね。
例えば建築でも、グラフィックデザインの新しい方向としてまだまだ未開拓な領域があるのではないかと思います。むしろ建築家のほうがグラフィカルな表現を取り入れるのに今は積極的ですから。
領域にこだわらず、私たちグラフィックデザイナーが積極的に提案し、関わっていくことが必要ではないかと思っています。
平野菊竹さんの場合は、環境的なお仕事を自分からアプローチしていくんですか?
菊竹今の空間や環境に関わる仕事を、20代の頃、NDCの時代に想像していたかというと、全くそうではありませんでした。何に心を燃やして生きていくのか自分と葛藤する中で、不思議なそして素晴らしい出会いがあり、それがすべて今の仕事に結びついていると思います。
平野やっぱり出会いになりますね。
仁科自分の伝えたいこと、表現したいことを真摯に頑張っていくと、自ずとそういう仲間にも巡り会える気もしますね。クリエイティブの力とは、毎日地道に続けていくことが本当に力になるんだと思うんです。今、子ども達の世界から、形容詞や想像力が欠けていっているんです。主語と動詞だけでは、自分の個性を表せないし、コミュニケーション力も育ちません。精神を自由にするためには、努力しなければ自由にはなりませんよね。子どもの分野に取り組んでみて、本当に生半可な気持ちではできない大変な世界、けれど、やりがいのある世界だと痛感しています。ひとりの一生では、そういくつもの体験はできないかもしれないけれど、絵本や児童文学の世界には、冒険も人生の辛さも夢も詰まっています。これから迎える時代に希望を親が見出さないために、子ども達の心の状態はぼろぼろに不自由です。まず、本を読むことの中で体験し想像力も育っていれば、現実に辛い状態が訪れた時に、「そうだ! ああいうやり方もあった!」と思い出し、乗り越えていくこともできます。イマジネーションが現実の自分を救う手段にもなるのです。私は物語も書くので、子ども達の純粋な美しい心に向けて、美しいものを本当に美しいと思える心。友人の辛い体験を一緒に「辛かったんだね……」と思いやってあげられる心が育つようなお手伝いができたらと思っています。そして、NDCで養ったデザイナーの利点を活かして、多くの異業種の人をつなげて、森を救い、子どもや大人の心が生き生きするようなプロジェクトも企画していきたいと思っています。
平野僕は、デザインというものの捉え方を狭く考えないで、広い視野を持って仕事をしていきたいと思っています。自分が50歳になったからということもあるんですが、デザインの仕事を東京という都市ではなく、奈良の田舎でやろうと思っているのです。僕が尊敬しているオトル・アイヒャーはローティスというミュンヘン郊外に暮らしながら、世界的ないい仕事をされたのですが、僕もひとつの憧れとして、日本文化の中心地にいて、これから必要なデザインを考え、仕事をしようと思っています。事務所ごと移転して、所員と共同生活するつもりなのです。
菊竹数年前のことですが、私が携わった本について、永井先生から素敵な言葉の詰まったお葉書を頂戴しました。私達の世代にとって、永井先生は超えられない大きな存在であり、そこを目標にして頑張ってきましたから、先生からかけていただいたお言葉を本当に嬉しく思いました。今でも机の前にその葉書を貼っています。何かあった時にはそれを見て自分を奮い起こそうと思って。
憧れの先生、大先輩の方々、そして同じ年代のいろいろな職種の方々との交流があり、人が行き交う広場のような場所「NDC」に、ひととき住まわせていただいたことを、何にも代え難い「宝」だったと、今改めて思っています。
2009年9月28日







