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宮田今日ははさみだけ持ってきた。これは40年前にセンターで最初にもらったはさみ。ドイツ製だと思うんだけど、その頃7,000円くらいかな。僕の給料とあまり変わらないくらいだった。なぜかなくならないんですよ。誰かが持っていってしまうこともあるんだけど、また戻ってくる。これはね、当時NDCに入ると皆もらったものなんだ。あとは版下作業用のボンナイフ。昔はカッターがないからね。烏口はなかったかな。筆、定規、黒と白のポスターカラー。そういうのをひと揃いもらう。僕が入ったのは18歳の時。23歳で辞めるまで大切に使っていた。
中川NDCは、出ていった人がおもしろいよね。僕が入って最初に思ったのは、会社の塀は高いが屋根がない。つまり入るのは大変、でも入っても雨ざらしの会社やな、と。勝手に育つしかないっていう(笑)。
宮田何も教えてくれないもんね。僕なんかワルだったし、パチンコと酒、みたいな。あとはトランプ。
中川僕が最初に入社した髙島屋は新入社員教育があったし、電話の取り方から挨拶の仕方から、社会人の心得、みんな教えてくれた。宮田さんの頃のそういう野武士みたいなところは今はなくなっているのと違う?
宮田それはそういう時代だからね。昔は仕事しているのか、遊んでいるのだか分かんないみたいな……。
中川大阪から見ると、それが輝いてましたね。みんな行きたい、行きたいって思ってました。
宮田僕は試験を受けて、新卒で入った。偶然だったね。
中川NDCに入るには3つ方法がある。ひとつは学業優秀で、何百人の難関をくぐる。これは、僕は入れないなと思ってね。ふたつ目がアルバイトで何がなんでももぐり込んでディレクターの下で、覚え良ければそのまま。3つ目、そういうのはあきらめて、外でそれなりに力をつけてスカウトされるのを待つ(笑)。僕の場合は3番目。
宮田スカウトってあったの?
中川永井さんが代表者になる時かな。僕は大阪にいたんだけど、永井さんから直接電話がかかってきた。失礼ながら「どちらの永井さんですか?」って聞いたら、「日本デザインセンターの永井です」って言うからビックリしたよ。「東京へ来るつもりはありませんか?」って感じの電話だった。その時、僕はボルト・ナッツ・スタジオっていう小さいスタジオを始めたばかりでしたので「ひとりだけでは行けない」と言ったら、「一緒にどうですか?」って言われて、当時のメンバー5人で入ったんです。それが1975年のこと。最初はそれが負担でね。地獄のどん底でしたよ、文化の違いで。ちょうど山城さんを始め、多くの方が辞められて、NDCの人材の変わり目でしたから。
宮田僕の入社は1966年。入ってトヨタの仕事をしていました。かっこいい仕事をやってました。山城先生を中心に長友さんとかいっぱいいて、原先生がいて……。僕は大人になりたくて髭をはやして。
中川デザイナーって言ったらかっこいい時代ですよ。
宮田でも家に帰らない。ひどかったですよ。
中川一番おもしろかった時代なんじゃない?
宮田いやあ、地獄。1年ほど経ってからトヨタの新聞チームにまわされて、アートディレクターが3人いて、デザイナーが2人。もう大変だった。3か月間1日も家に帰れなかった。ディレクターがいないから、20歳くらいのデザイナーがやるしかない。撮影行って、すぐに飛んで帰って現像して、現像があがる間に次の原稿をつくって、原稿つくってるうちに校正の手直しが始まる。で、また次のラフを描いて。ラフと入校と初校、再校が同時進行。それがほとんど毎日。
中川チーフやディレクターは何してるんですか?
宮田いないんだよ。どこにいるか分かんない。仕事やってるとは思うんだけど、見えない。15段2本、10段2本、7段2本、5段と3段が各1本。8本つくらなくちゃならない。それが毎日3か月間。いや~、もう疲れたなんてもんじゃない。くたくたでしたね。
中川そんな中で、宮田さんの今日の原点をつくったのはどこなんですか?
宮田辞めてから、と言いたいけど、やっぱりNDC。NDCで地獄を見たというのは強烈に覚えています。それに新聞をやったことは大きかったと思う。
中川悟るために滝に打たれるって言うでしょ。デザイナーが滝に打たれるが如く仕事をガーッとやってたら、気がつかないところで、なにがしか悟りがある気がするんですよね。
宮田ないな~(笑)。若すぎて分かんない。仕事のスピードとか感覚は覚えてますけどね。
中川かつてデザイナーというのは毛1本きれいに線が引けることが仕事でしたよね。
宮田頭で考えるっていうより体で覚えてるよね。
中川それが「滝に打たれるが如く」っていうことでしょう。
宮田そうかも。車の絵を描くのも、頭で考えてるんじゃなくて身体で覚えている。写真を4×5で撮ったらああなってこうなってとか、そのスピードでやんないと終わらないの。スピード命。もう、入校することが先決とか。
中川まるでイチローだなあ。どんなボールが来てもバットに当てる。
宮田その頃はね。で、まあ、天狗になっちゃって(笑)。そこからおかしくなって、会社を辞めざるをえなくなって、辞めました。自信過剰なガキでした。
中川宮田さんは僕と同い年ですね。僕が髙島屋に入ったのが18歳で1966年。
宮田その頃って何かと言えばいじめられるし、向こうに行け、邪魔だと言われるし。どうしていいか分からない時代だったから、生き方を知らないうちに覚えてしまったという感じだな。なにせ僕ら団塊の世代は人が多い。僕の小学校のクラス、70人で13クラスくらい。
中川たくましいですよね。僕のクラスも17クラスぐらいありましたよ。で、午前と午後の2部制。
宮田バラックだしね。歩けば、ガンガンって音がする。どこの街に行ってもそういう状態だった。そこの9割と、今の9割とでは人間の数が10倍違うから、考えなくても競争に巻き込まれていった。だから、知らないうちにすんなりいった人といかなかった人がいたんです。
中川NDCに入ろうと思った時も競争は激しかったでしょ。
宮田どうなんでしょうね。当時7人くらい受けて、そのうちのふたりが入った。コピーライターのほうが受験者が多かったと思う。コピーライターの試験は、1,000円渡されて、何か買って来いというものだった。僕らデザイナーの試験は、3個×3の9個の点があって、それを4本の直線でつなげ、という問題だったな。僕は直線で描いたけど、もうひとり入った人は円で描いた。その直線をまたデザインしちゃったりしてね。まあ入れたのは偶然です。
宮田僕は神奈川の工業高校を出て。クラスは27人だった。
中川僕は大阪の工芸高校40人2クラス。最初は美術科の願書を持っていったけど、いったん入学したら、もう途中変更できないって言われて、その場で願書を書きかえて図案科を志願した。その時もし書き直していなかったら人生変わっただろうと思う。デザインのおもしろさをバウハウスで知ったデザイン少年でしたね。だからNDCにいきなり入らない幸せを逆に感じるのかもしれないなあ。工芸高校を出てから大阪の堺髙島屋という小さい百貨店宣伝部に入ったんだけど、同級生4人で入ってね。先輩がいなかったので好きな道具が買えた。トレスコープを使ったのは一番早かったですよ。
宮田えっ? 66年でしょ? その時トレスコープ使ってたの? だよ~(笑)。NDCにはなかったよ。
中川出たばっかりの頃。それからロットリング、パントン、トレスコープ。デザインの道具が変わり出した頃ですよ。先輩方はみんな三角定規で、烏口、溝サシで名人芸な頃。ところが先輩がいない分、パントンの見本帳も一番早かったと思いますよ。
宮田そんなの僕は、フリーになってからもしばらくないし(笑)。
中川そういうのを使うのは早かったですけど、現実の仕事はね……。新聞広告はほとんどなくて、チラシがメイン。ポスターはバスの中吊り。モノクロ写真ばっかりで。で、しかも年下のデザイナーが生意気なことを言うから、カメラマンがちゃんと撮ってくれないわけ。それで写真を使うことをやめて、レタリングして、イラストレーション描いて。僕のデザイン界デビューはレタリングですよ。最先端の道具を使ってアナログ的に描いてたのがイラスト。カラー写真を使って製版に頼らなかったことが、後から振り返れば自分の個性につながったと思う。
NDCに入ってからは、大阪流のやり方でやってる分、最初の2年間はカルチャーショック続きでしたね。当時のNDCの仕事は、あまりにも大企業対象であまりにも分業で、デザイナーは本来もっとトータルに仕事をして尊敬される職業じゃないのか、こんな「スラム街」の中で仕事をしているというやり方でいいのか、と疑問に思ったから、NDCに入って10年目に理想のデザイン会社像を「空想の3階建ビル別館つき」に例えて、これからのデザイナーとデザイン会社はこうあるべきだと。だから、辞めるって、会長の鈴木松夫さんに言ったんです。「10年働いてお返しはしたから、自分の会社をつくりたい」。そうしたら、「おまえの言うとおりや」って言って社内でやれってことになった。で、辞めそこなった(笑)。
宮田そうやって言うとそういうもんなんですね。
中川それからはおもしろいもんでね。明治製菓のチョコレートは来ないんだけどカレー、新日鉄の鉄じゃなくてコンピュータ、キリンビールのビールじゃなくて中華ソース。その時、日本の産業が拡大発展期で、本業以外に新規ビジネスを模索していて、僕自身もデザイナーのあり方を模索していて、器をつくったとたんに、次々とそういう仕事が来た。ランドマークタワーのプロジェクトもそのひとつ。地域グッズの先駆けでした。グラフィックデザイナーも受注産業としてやるんじゃなくて、自分たちがコミットメントする仕事があるんじゃないかというふうに考え始めてから、自分の世界が活きたというか、そんな感覚でしたね。
宮田退社してからすぐ事務所をつくったけど1年で解散。それからフリーになったけど、何にも見えなくなった時期が7年くらい続いた。それで、自分の生活の仕方を変えようと考えて、代理店を通さずに、クライアントと直に仕事をつくることにした。そういうふうに決めるとそういう仕事が来るのね。そう思ってからの1~2年は自分で歩いた。ただ歩いた。歩いていれば誰かに出会えると思った。頭下げて「仕事ください」とは絶対言わないようにしようとNDCにいる頃から思っていたしね。そういう具合でやっていくうちに仕事が来るようになったんですよ。ターニングポイントはジャックダニエルの仕事でした。1本100万円で、コピー代から写真代から、製版代まで全部入っているから、経費を払うだけで手元に残らなかった。年間3回新聞をやったかな。それでADCの最高賞と朝日広告賞をいただいた。思い切って仕事の仕方を変えたことが良かったのかな。
中川いちばん長いクライアントはどれくらいなんですか?
宮田今はそんなにないけど、25年とか30年とか。キリンで22年かな。10年、20年は普通ですけど。長くやっているのは全然つらくないです。だけど、この時代に長く付き合ってられないなあと思う。20年30年付き合っていても、捨てられるときは簡単に捨てられるの。それが必ず起きる。そういうつらい状況を思えば思うほど、自分で立ち上げたくなるんですよ。40人いる社員を食べさせるという点もあるし、成長させるという観点もある。どうやって成長させたらいいかと考えると、受注だけじゃだめで、自分で考えて自分でコトを起こして、自分で答えを出していくというのをやらないと成長しない。できるだけそういう場を与えて、そういう組織をつくってそういう構造にする。そうすると自然と成長していく。みるみるうちにね。与えてしまうと成長していかない。ほっとくと成長する。そこからいろいろな芽が出てくる。各自、自分の中のフラストレーションを適当にコントロールする。企業と付き合うイライラを、そっちをやることでバランスをとるんだよね。
中川NDCはどんどん新しい人材が入って、どんどん辞めていったけど、宮田さんのところはどうですか。
宮田ほとんど辞めないけど、例えば友達がフリーで稼いでいて楽しそうで、よく見えたりするんですよ。そういうふうに思った瞬間に男は辞めたくなるんですね。そう思ったらもう止められないですね。そう思っているということが分かるから、来たな、と思うし……。
中川宮田イズムを押し付けるわけじゃないんですよね。
宮田イズムはあります。考え方はあるけど、表現は一切押し付けない。デザイナーという表現者は同じであるべきじゃないし。
中川今の学生は、学生の時にデザイナーって何だろうというのをうまく学んでないんじゃないかなと思うけど。
宮田僕らの頃の学校の先生の教え方は良かったと思う。34~35年前の学校教育は個人個人の実習が多かったんですよ。当然Macはないから、左脳を使わせない、右脳だけの勉強で。僕ね、20歳の子が入ってきた時に、この子の右脳だけで感じとる感覚はあと2年しかないな、と思うんですよ。22歳で入った子はもう終わってると思う。
中川今は、デザインの世界は美大系で、美術としてのアクセントが強いデザイナーが多いけど、工学系、理数系の人とか弁護士になるような人がデザイナーになったら多彩になるんじゃないかなあ。
宮田右脳と左脳のバランスじゃないかと思うんです。工学系の人でも右脳が弱い人じゃだめだと思うんですよ。左脳の組み立てる能力と、右脳の感じる能力のバランス。逆に僕、学校では今、左脳しか使わせてないと思います。なにしろ僕らは叩き上げられているでしょう。3か月に何百本と記憶にないくらい(笑)。しかも実は学校でも同じことをさせられていたから、体に叩き込まれている。それは右脳の感覚で、理屈の問題ではないし、計算式の問題ではない。いろんなものを見ることもそうだし、感じ方もそうだし、作業もそうだし。考え方とかコンセプトとかプレゼンテーションだとかばっかりやらされた学生が会社に入ってきて個性的なデザインを要求されるのはおかしいと思うんです。
そして感性は、21~22の頃に終わると僕は思っているんです。山の中に住んでいたら、35歳くらいまで伸びるかもしれないけど、都会では基本的に物事を考えなくても失敗しても生きていけるのが22歳くらいまで。まあ仕方ないかという年。それまでは好きにできるけれども、できなくなった時から考え始める。その時は感性が一気に衰えると思うんだ。感覚だけで生きていけるのは大学時代まで。そこまで何をしているかが重要かなあ、と思いますね。僕らの頃はかなり右脳派だったと思いますよ。というか、実務派というのかな。体でやってた。バカだったんです(笑)。だから学校の先生も勉強しなくていいと言った。
中川僕は逆だなあ。味覚も聴覚もだんだん感じているんですよ。このままいったら80、90歳が楽しみだなと思う。
宮田55歳くらいになったら考える必要がなくて右脳が働いてくるから、全部組み立てられる。その意味では頭はどんどん良くなってくるよね。
中川僕は一番初めはジャーナリストになりたかったんです。もともと隠れている仕組みとかを知ることにすごい好奇心があった。刑事と、ジャーナリストと、デザイナーには共通項があるな、と感じています。デザインは未来を楽しくする目的をもって企てる。刑事的にいうと、「未来の楽しい犯罪」をおかしているというかね(笑)。少年の頃、興味を持ったものを、今でも引きずっているのかなあ、と思う。
宮田僕らの仕事はかたちをつくることが最終的なものかもしれないけれど、その前に自分が何をしたくて、どうしたいのか、ということだと思うんです。クライアントがしたいことと自分がどうしたいかが合うか合わないかだと思うし、それをチョイスする力があるかどうかだと思う。デザイナーはいっぱいいるわけで、そういうふうにそれぞれの役割をやれてるかどうかだと思うんです。社会と自分の関係の中に存在する関係論を見つけ出すと言うか。言ってみれば、僕のデザイン論でしか語れないわけですよ。
中川断るのは?
宮田勘!(笑) よく見てないとダメだよね。この会社をなんで嫌いなんだろうと思うと、だいたい共通項があるんですよ。
中川僕も選んでいるけど、もうちょっと意識的に選んでるとは思いますけど(笑)。
宮田僕もそうですよ。商品と人とみんなの言葉。
中川全く知らない街に行って、蕎麦屋とかでも感じますよね。玄関だけでね。カッコだけだとか、中身はしっかりしてるとか。暖簾ひとつ見て感じますよね。その勘を養うのは大事ですよね。
宮田自分なりに正確な答えが出せるまでは時間がかかったし、失敗しましたけどね。
中川僕はね、最近読んだ小説で、島原の乱の時に天草四郎が人々をひきいて立ち上がるんですけど、みんな海に飛び込んで無意味に死んでいく。けれども、主人公の医者は医者として、明日死ぬかもしれない子どもを救うんですね。その宗教家の救いと医者の救いと、どっちが自分にとって意味があるかっていった時に、自分は医者の立場でデザイナーになってるなって、つい最近再確認したところです。
中川僕はね、若者を学校の先生のような立場で育てるという気持ちはないのね。若者は後ろから先人を追いかけて行けばいい。同じ釜の飯を食って盗み取れ、と思ってます。今、僕のチームは11人ですが、最大18人まででいたい。僕自身、自分でデザインしたいから、20人を超えると見られないと思った。
宮田僕はほとんど全部見ている。ハードですよね。個人個人に来る仕事は見ないけど、僕を通しての仕事はかなり厳しく見てます。僕に来た仕事だから。
中川デザイン教育を小学生からやればいいのにね。デザイナー養成という意味ではないけれども、デザインのレベルは良くなるだろうなあと。
宮田先日、表千家の家に行ったんですよね。どこ見てもすごいよね。どう考えても紙でした。紙を組み立てた家。薄くてペラペラで、だけど何百年も生きている。それはなんだろう、と思う。どうやってあるべきなのかというのが重要で、それは教育しないと分かってくれないですよね。やっぱり闘って叩き合わないと次の時代は成立しない。それはデザインを教えることじゃないと思う。デザインなんて教えなくたって、自分がこうしたいと思えば、それはもうデザインですから。だからまあ、僕としたら「デザインするな」ですよ。
僕は昔、いろいろなAD達に会ってきた、あの中から育ってきた。でもなんにも理屈はないんです。ただ、ポスターがつくれます。それだけ。新聞広告もポスターみたいなんです。ADも、デザイナーも、イラストレーターも、カメラマンも、自分のいい作品をつくればよかった。その後の人達は、そこからいろんなことを教えてもらってきたわけです。あるいは反省点。あれは違う、デザインじゃない、こうあるべきじゃないという反動をもって、我々はひとつひとつ積み重ねてきた。だけどいくらやっても、時代の端っこにしかいられないんですよ。なかなか真ん中に来られない。デザインがこんなに流行っても、世の中にデザインしかない時代になっても。僕らは一番端っこに行かされて、じっと動かず、喋らないままでいる。僕はまだいいほうです。だけどほとんどの人は、行く場所ないくらい追いやられている。だから彼らの場を僕がつくろうと思ったんだ。まず場をつくってあげて、その場に来てもらう。来てもらえば大丈夫だからと。場をつくってあげないと、次の時代の人達はさらに行き場所がなくなります。違った文化、文明ができるからデザイナーがいらなくなりますよ。
中川自分が真ん中にあって職業があるのではなくて、必然性があると思うんです。必然性がないと成り立たない仕事ってありますよね。
宮田僕ね、SPが好きなんですよ。各企業によって媒体が違う、表現方法が違う。目的によって表現方法は異なる。SPだけのコミュニケーション方法のほうがいい会社は世の中にはたくさんあったり、場合によってはCFのほうが正しい会社もある。企業によって方法論が違う。宣伝しないほうがいい場合もあるんですよ。宣伝以外の方法、例えば広報だけとか……。僕は、その判断の中で、プロモーションを中心としたほうがいいと思える企業が、案外たくさんあるということを知ったわけ。お金を使わせないで、プロモーションで仕事をこの企業は、回すべきだっていうような考え方を持つべきだと。そこから表現されるデザインがけっこうおもしろいんですよね。広告自身がエネルギーをさほど持ってないし、媒体の力はどこにもないけれど、せめてお店にはまだまだ魅力がある。SPが重要な役割にあるんじゃないかと思う。伝達の方法として一番分かりやすくて、客に一番近いところで仕事ができるということもある。プロモーションの考え方が商品開発につながっていて、僕がやってるD-BROSともつながっている。要するにデザインと消費がお店という場でつながっている。
どこの店でも置いてある商品はSPはあまり意味がなくて、店を選ぶ場合の商品は、SPが大きな意味を持っているし、商品力も意味を持っている。商品のかたち、デザインも意味を持っているし。それが商品とSPの関係にあるような気がして、デザインの場はまだまだ広いと感じる。
中川全く同感ですね。プロモーションってものすごく大切ですよね。グラフィックデザイナーとして何が大事かというのをNDCに入って10年くらい経った頃に、5つのジャンルで考え直したんですけど、ひとつ目は「アイデンティティ」。私たちは何者か、企業は何者かを考えるデザイン。ふたつ目は「インフォメーションデザイン」。これは最も重要なんですけど、言葉でニュースを伝えることができた時代とできない時代がある。それを図表なり、マップで情報を伝えるという、日本で一番遅れてるのが、この分野。3つ目が「プロモーション」。広告もその中のひとつと考えているし、グッズもショップも含めて考えられる。4つ目は、紙も100枚積み重ねると、重さもあるし、立体になる。これは「プロダクト」として考えるべきだ、と。ページを含めると時間のデザインも入ってくると。5つ目は全部が機能しだすと「空間」とかスペースとか配置とか全体のことが気になってくる。これから増えて欲しいなと思うのはインフォメーションデザインですけど、一方で、ショップが一番おもしろい。
ショップ、グッズがメディアになるというのが、まさしく新聞広告やテレビが影響する以上に、ひとつのチョコレートやノートやボールペンがもっと大きいメディアとしての意味を持つと思う。どうやったら快適なものができるか、どうやったら相手に伝わるか、生活者視点のデザインが大事じゃないかなと思いますね。
宮田でも一方で、過去の1枚のポスター、ひとつのコピーとひとつの絵と単純な構成でできているそれが一番難しいというか。あれがちゃんとできないと、SPとして成り立たない。コミュニケーション全体を組み立てられないというか。ある目的があって、その目的を達成するために具現化した、一番最後の表現、最低限の表現の仕方ですよね。これ以上切り詰められない状態。たった1枚の写真にあらゆる条件が埋め込まれなければならない。たった1行の言葉にあるものを託さなければならない、ロゴタイプ1個の位置づけとか、大きさとかにすごく意味を持ってるとか。それがちっちゃいと、いくら写真がよくても何言ってるか分からない。そのデザインのレイアウトの可能性とかすごくありますよね。案外ポスターはものすごい能力を持っている。2次元だから、切り詰めているものだから……。もう一度、ポスターの存在に可能性を持つというか、あらゆるデザインの表現の仕方を、今考え直さなければならないと思いますね。
2009年10月20日














