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戸田僕は髙島屋宣伝部にいて、NDCには山城さんに推薦をもらって25~26の時に入ったと思う。27歳でアートディ レクターって早かったと思うね。何もできなかったので大変でしたよ。デザイナーとかカメラマンとかにいじめられたなあ(笑)。厳しい指導でしたよ。でもそれが励みになったけど。だから若く見られないようにサングラスかけて、髭をはやしたり髪の毛を伸ばしたりいろんなことをしてたね。NDCの前に髙島屋にいたんだけど、そこでは三段か四段の広告しかやってないから、NDCに入って急にデカイ仕事がボーンと来るのに、実は四色分解も知らないなんて言えないじゃない(笑)。それくらい大変だった。最後はいいものをつくればいい、って開き直ってやっていたけれど……(笑)。
サイトウ戸田さんはたしか24歳で朝日広告賞のグランプリを取ったんですよね。だからいいかたちで入れたんですけど、僕の場合は永井先生に作品を見てもらって、泥臭く潜り込んだわけですよ。役員会では全員反対したらしいんですけどね。NDCで僕は修業を積んでいたと思ってる。
NDCはかっこいい仕事もやっていてね。今でも覚えているんですけど、CBSニューヨークにいた森島紘*さんがディレクターで、新しい仕事のために来てくれたまえ、みたいな感じだったんですよね。僕はその時22~23歳だったんだけど、自信だけはバンバンあったから、新しいプロジェクトをやらせてくれると思ってたら、全然やらせてくれない。梶さんがCDで、森島さんがAD、僕はデザイナーという手伝いの立場なのよ。それでやる気がなくなっちゃった。会議で何か言うたびに「唐突すぎて」とか「コンセプトは?」とか言われてさ。みんな理屈っぽいんだけど、僕はビジュアリティの頭だったので、発想するものが、「階段の石段のところに外国人がコートを着て座っていて犬がいて、『琥珀色の香りバルカン』」……みたいなしょうもないアイデア出してた。はっきり覚えてるよ。
戸田懐かしい。
サイトウだから、僕はこんなことはできないって言って手伝わなかった。で、ほされた。ADは大きな真っ白いテーブルでカッコイイわけよ。僕のテーブルはゴムシートがボロボロになったようなのが敷かれている入口のそばの席でさ。
森島さんに呼ばれて「サイトウくん、バルカンのロゴをこういうふうにやろうと思うんだけど、描いてくれない?」って言われるんだけど、俺も戸田さんと一緒で、それまでそんなことやったことがない。良ければ必死でやらなきゃいけないと思ったけど、べつにロゴも良くないから、「僕は良いと思わないからできません」って返したら、周りがパッと見るわけよ。俺なんかに、もう誰も声をかけないわけ。こんなとこ、辞めちゃおうかと思った。他の部屋をいろいろ回ってみると、どこでも最近つくったものを貼っていたんだけど、どこにも俺がドキッとするようなものがなくてさ。
僕が入った時、戸田さんは蟻田善造*さんの部屋のADでしたよね。伊勢丹のお中元とかお酒の中吊広告とかを部屋中にダーッと貼っていたのもはっきり覚えている。氷の中にお酒を入れてるお中元の広告とかをやっているのを知っていたから、ああ、それをやっている人なんだと思った。実験的なことをやっているわけ。アグレッシブなわけ。ここは違うな、と感じたね。戸田さんが「おもしろいか?」と聞くから、「他と全然違うでしょ」って言ってね、それからしょっちゅう戸田さんの部屋に遊びに行って話をするようになったのね。戸田さんだったら手伝ってもいいかなと思った。それで蟻田さんが俺をもらってくれるという話をしてくれて、戸田さんの部屋に行ったの。論理的なことばっかり言う広告屋さんはいなくて、アート的感覚から発信しているデザイナーに初めて会って俺も勇気づけられた。
戸田論理が下手で、学校も出てなくて(笑)。
サイトウ戸田さんより俺のほうが話うまいけどね、同じ種類なわけよ。口は上手じゃないけど、感覚だけが優れてて、そこだけを信じてものづくりをやろうとしてて。そこからつくったものは、よく考えられたものよりも鋭い部分で落とし込まれたものがある。だから戸田さんも俺もひとつの時代をつくれたわけ。それができない人は論理から攻めるしかないわけよ。自分が得意の部分でしか俺達は攻められなかった。その時良い仕事をしていた人達は俺達とは全く違う論理的なタイプの人達で、彼らがひとつの時代をつくっていたけど、その中で戸田さんは一矢を報いていた。俺と感覚は近いし、いつかは俺もできるぞ、絶対やりぬくぞと思ったね。80年代に戸田、サイトウ、井上嗣也*という、アート派というか感覚的な部分を武器にした三羽烏の時代が来たんだ。戸田さんも俺も負けてなるものかと思って進んだ結果だと思うんだよね。
論理的なタイプが今ますます主流で、それは全然否定しないけど、そこにやられちゃったらダメなわけ。自分の武器は何か。時代と違うということは最大に喜ぶべきことだと思う。だって時代を変えられる可能性があるからね。それを信じきる力、負けないだけの力を個人が持っているかどうかということだよね。
戸田さんは覚えてないだろうけど、打合せするでしょ。戸田さんが26~27歳。俺が23歳。俺が考える一瞬先に戸田さんが同じようなことを先にパッと出すんだよね。一瞬早い。俺はものすごく悔しくて。
戸田さんは出会ってから8か月くらいでいなくなっちゃったんだけど、その時間はものすごく刺激的だったし、「よし、やっていこう」という気持ちにさせてくれたよね。その後の俺をつくっていく原点だった。相当先を走ってたからね、戸田さんは。後ろからヒタヒタ迫ってくる俺の足音がちょっと嫌だなってところ、あったでしょ?
戸田あった、あった。似ているからね、感覚が。僕達みたいな感覚人間は今のデザイン界にはないタイプだよね。
サイトウ全くないね。今後もないんじゃないかな。その頃はおもしろい時代で、戸田さんや俺達みたいなのを愛してくれて、大金を出す企業家がいたんだよね。
戸田今はプレゼン、プレゼンでしょ。あの頃は現在とは違ったタイプの経営者がいたよね。おもしろいよね、僕は1回のコンペで7年サントリーの仕事したから。何十億のお金を27~28歳が動かせたんだ。本当に僕らは突っ張っていたよね、サイトウくんはまだ突っ張ってるけど。でもすごいプレッシャーだったよね。
サイトウそれがいいんですよ! それが新しいものを生む力なの。そういう気持ちにさせてくれるいいプレッシャーでした。今は新しい、五感に働きかける力がないんだよね。時代だとは思うけど、あの時代と比べると今はエモーショナルなものに働きかけるものはない。かっこよかったりきれいだったり、見かけはいいけどつまらんよ。
戸田それは僕らにはポスターという点があったからね。今、小さいツールをいろいろ組み合わせたりするけど、僕らはポスター1点。それしか興味ないわけ。
サイトウ1枚に命をかける。そこが今できるものと訳が違う。今のは残らないよ。残らなくてもいいんだけど、どうせつくる以上は残したいという気持ちは絶対にあるから。
戸田ポスターしか残らないんじゃないかと、今でもそう思ってる。
サイトウおもしろい時代を駆け抜けたと思うね。移り変わる時代を冷静に見ると、その時代その時代で用を足してきたものが結果として残るかどうかだと思う。今の時代のものでも良いものは良いけれども、流れがひとつになりすぎているように思うんだよ。コンセプトっていう考え方にまとめられたサラリーマン社長が理解できる範囲の表現、にね。少しは相反するものがあって初めてバランスが取れるんじゃないかと思う。
戸田つまり「常識」なんだ。「常識は創造の敵」という気持ちでやらないとクリエイターは育っていかないと思う。
サイトウ昔から常識なのに今見せられるとすごく新鮮に見える、なんていうものがあればすごいなと思うけどそれがない。常識で終わっているよね。
サイトウ俺達は「アーティスティックデザイナー」であって、アートディレクターとは言えないと思う。グラフィックデザイナーとも言えないかもしれない。基本的にチャンネルを合わせているのは自分のやりたいことで、それをいかに押し付けるかだよね。
戸田広告ができてくるとクライアントがビクッとして、「話が違う!」とか驚かれてさ(笑)。でも許されたよね。そういう時代だった。
でもNDCは勉強になったな。初めての仕事だから、責任を持ってひとつひとつの仕事を精密にしていたからさ。でも突っぱっていてさ。
サイトウ戸田さんはいつも気を張ってて、後ろから見ていて責任感を感じさせるエネルギーを持ってたよね。デザインはつくるだけでなく責任感が大事だから。NDCの中ではダントツに力があったよね。抜きん出た光を持ってた。
戸田ずれてたんだろうね。考え方も違ったから、嫌われてたと思うよ。
サイトウえっ、俺らふたりとも嫌われてたの!?
戸田サイトウっていう変わったヘンな奴がいるってのを聞いていて、ヘンな奴が欲しかったわけだもん。刺激が欲しくてね。僕も孤立していたよね。今思うと、サイトウくんが来るまでひとりで昼飯食ってたね。あんまり食わないから蟻田さんが弁当持ってきてくれてね。蟻田さんはキャラクターのある人で。ある日、僕が辞める、疲れているからって言ったのね。若かったから口が下手で。蟻田さんを取るか僕を取るかっていうことになっちゃった。僕はそんなつもりじゃなかったんだけど……。
サイトウ言い方を間違ったよね。単純に「独立したい」って言えば良かったのに。戸田さんも若きスターだったから。
戸田今思えばオレが悪い。蟻田さんが悪いんじゃない。社長にひきとめられた。給料3倍出すからって。でも3年いて外注もいっぱい来ていたから、ひとりでやりたくなったんだよね。
サイトウ戸田さんはすでに外でも名前が知られていてすぐ出て行っちゃって、俺はその後、残った仕事をひとりでやっていて、セイコーの仕事もやり始めて、NDCの仕事をやりつつもアルバイトに精を出し始めた。バイトなのにロケに行ったりして給料の8倍も稼いでいたから。戸田さんは名前で仕事を呼び寄せていたけど、俺がやっていいの!?みたいな。
戸田それが時代だよね。NDCはそれを黙認してくれたから一番自由だったし、夢もあった。浅葉克己に負けたくないとか言ってね。本当は認めているけど、嫉妬している部分もあるから、自分たちのほうがいいんだ、俺達は違うことをするんだっていう気持ちが前面に出てた。
サイトウ「普通じゃん」とか「どこがいいんだよ」とか言ってね。俺達が時代をつくれたのは前のものを鵜みにしなかったこと、かといって否定もしなかったこと。今でもすごかったな、と思うのは石岡瑛子だね。あの人だけはけなせなかったね。なぜか分からないけど強いものがあった。別格のエネルギーを発していた。コピーにしても、写真のディレクションにしても、文字の置き方にしても、本当に強いメッセージがあったよね。
戸田命がけでやってんだと思うね。
サイトウNDCでは、ありとあらゆることをやったね。ハガキからチラシから、細かい仕事をいっぱい。面倒くさいものは「サイトウくんやってくれる」って来てさ。撮影も面倒くさいのはサイトウくん行ってくれるって。嫌なものはやりたくないから手を抜くんだけど、やりかけたらなんでも必死でやる人なのよ、俺。そこで学べるんだよね。レリーフを使って4色で素晴らしいチラシをつくったよね。
戸田原点だよね。だから、後の仕事は簡単にできた。みんなが10時間かけてやることを5分でできるようになった。若い時には人が10時間かけてやるのを100時間かけてやったほうがいいよ。後はもう慣れれば5分で終わるようになるんだから。
サイトウ見えるところまでやらなきゃダメよね。フリーになってすごく稼いだよね。ケタが違うよね……今は何もないけど。
戸田貯金しとけば良かったなあ。楽しかったよね。お金がこんなに入るんだなあと思ってね(笑)。
サイトウ「ボッタクリのサイトウ」って言われていたけど、失敗したら返すよってノリもあってさ。うまくいけばぼったくるけど、相手が払うって言うなら第三者がとやかく言う必要はないって。俺、博打好きだからね。人生も自分も賭けていたというところはあるよね。戸田さんはそういうところは欲がないからね。
戸田僕も欲があったんだけどね。厚かましくなかったんだよね(笑)。
サイトウ悪かったね(笑)。
戸田仕事に対して自然にお金が入ってきたからね。毎月雑誌が30本、それに新聞。それで他の仕事しているわけだから、あの時はビックリしたよ。こんなにもらっていいのかって。
サイトウ戸田さんが出ていっちゃった後、残った仕事をひとりでやっていて、5年半くらいいたけど、外を見れば、戸田さんとは走っているところは一緒だったし、いつも外を見てたから違和感は全然なかったよね。
俺は、それまでの広告の枠を離れた部分で何を表現できるかということしか考えてなかったからね。もうすでにある流れではなくて、今までなかったものをつくりたい。そうしないとクリエイティブではない。新しいもの、今まで見たことがないものをメディアで登場させたのは俺達だから、俺達の前と後では全く違う。壁を破ったのは俺らだから。後は風通し良くなって良いかたちになったわけよ。
戸田僕らの仕事には答えがないのね。スポーツには勝ち負けがあるけど。クリエイティブには勝ち負け、答えがないの。だから僕らみたいのが勝つ時があるのよね。
サイトウNDCはいろんな意味で、基本的なことを学ばせてもらったね。戸田さんも俺もあの中では全然違う生き物だったけど、擁護してくれる人がいたよね。永井先生がいなかったらデザイン界変わってたよね。俺達がいなかったわけだから。永井さんが俺らふたりを育ててくれたと思ってる。
NDCに恩はある程度返したとは思っている。セイコー、ワコール、東芝とか。で、外の仕事がいろいろあって、28歳の時、辞めちゃって。独立したのは流行だったから。そこから出られないと根性もなければ、力もないという時代だったから。自然に時期が来た。仕事もアルバイトも増えてくるし……。退職金も覚えてる。5年半で、25万3,000円だった。
だけどNDCを愛してたし、誇りを持ってた。学歴もないし、普通じゃ入れないわけだし。永井先生のデザインしたNDCの袋がオレは自慢だったよね。
戸田オレも髙島屋宣伝部の時、NDCの袋、持ってた。ブルーのね。あれがデザインだ。
サイトウ分かるやつだけは分かってくれるってね。初めての誇りある会社だった。愛着とプライドと喜びは今でもはっきりと覚えてますね。NDCの歴史と、えもしれぬ会社のパワー。NDCの誇りを持っていたという頑張りと、永井先生にいい仕事を見せたいという思いが俺らを育てた。というか旅立たせたというか。
戸田オレは髙島屋宣伝部にいた時、「賞をとってNDCに入るんだ」という気持ちがあったよね。黙っていても先生から「NDCに来ないか」と言わせてやろうという気持ち。だけど髙島屋入った時、なんにもできないわけ。ヘンなヤツ入れたなって有名なわけ、何もできないし、1段つくらせてもヘンなもんつくるし……1段で「誰がつくったんだ!」って髙島屋の宣伝部長に怒られたからね。1段ならもうちょっと手を抜いてくれよって。これはもう賞しかないなと思って頑張ったよ。でもめちゃくちゃ自信はあったよね。みんな考えてること、レベル低いなあと思って。
サイトウ分かる分かる。たいしたことはないとか、分かるもの。言ってることは立派だけどこいつは何もできないとか分かるんだもの。嗅覚だけで生きてきた人間の生き方なんだよね。頭で考えてないの。僕らはその部分が判断の指針になったんじゃないかな。
戸田僕はそもそもデザインには興味がなかったんだ。建築が好きで建築を勉強していたのだけれど、最後1年間でデザインの勉強をして髙島屋に入ったんだ。今思うとデザインって本質的にそんなに好きじゃなかったんだと思うね。人の作品を見てももう好奇心がない。僕の根底は違うなと最近改めて思う。たまたまデザインに来たけれども、デザインではなく、アート性のあるもの、自分の世界をつくりたいと思う。生き甲斐というか、毎日生きているという実感を感じるというのはそういうところだね。人間としての生き方、というかな。10代の頃に気持ちは戻っているよね。
サイトウ僕はデザインを楽しみました。僕に場を与えてくれた人や機会に恵まれて感謝しています。そこで自分の生き甲斐を見つけて、100%出し切った部分に関しては、その思いを相手に示せたという気持ちでいっぱい。デザイン、マスメディアは時代を反映しているけど、10年前くらいからひずみを感じ始めた。いろいろなことをやりながら、インテリアとかプロダクトとかやりながら、そこから迷い、自分がちょっと道をふらふらするんだよね。そこから、一番鎧を外して、素っ裸で勝負して、言い訳できないアートで勝負しようと思った。デザインって言い訳できるけどアートって言い訳できないわけ。褒められるし、けなされるし、評価もされない。何でも言われるアートという部分で、最後はやってみたいということで4年くらい前から一生懸命やって、去年その世界に入った。デザインにも関わっているけど、デザインが新鮮なかたちで見えるね。前よりもよく見える。冷静に判断できるし。なんというか、いろいろあったけど、今の地点で気持ちいいところにいるなと思う。
2009年9月15日







