対話 07

デザインとメディアについての対話

小西啓介 × 長友啓典

NDCの頃

小西都立工芸高校の図案科(今のデザイン科)を卒業してNDCに入りました。NDCができて2年目で、新聞の求人欄に三行広告が出てました。独自に勉強していたので存在を知っていたんですけど、担任にその話をしたら、「そんな広告に出てる会社に入って大丈夫か」と言われたのはよく覚えてますね。世間的にはそんなに知られていなかった。業界だけの知る人ぞ知る会社だったんですね。僕は原弘先生のアシスタントで入りました。NDCにおける原先生の初代の弟子なんです。原先生が東京オリンピックの仕事やっていましたから、高校出たばかりでいきなりそれを手伝った。1年後にトモさんが入ってきたのかな。

長友それが羨ましかったですよ。僕は1963年くらいから行っているけど、オリンピックの年に中途入社なんです。会社行く時に空を見上げれば、五輪の輪っかが飛行機雲で浮かんでる……ということは僕、完全に遅刻ですよ(笑)。

本当はライトパブリシテイか資生堂に行きたかった。桑沢デザイン研究所に田中一光先生がいて、桑沢の3年生は10人くらいしかいなかったので、先生はみんなの就職をちゃんと世話してくれた。その頃デザイナーは売り手市場だからどこでも行けたんですよね。そのくらいデザインが脚光を浴びていた。まぐれで日宣美入選なんかしてたから、デザインをなめとったんですね、考えてみたら。あの頃の日宣美はすごかったので、ライトとか資生堂に行けると思ってた。先生も「うん。君なら」と言ってくれると思ってたんですけど、「君の大阪弁がダメだ。大阪弁を直さないと、ライトや資生堂は行けないよ」と言われたんですよね。そうこうしているうちに就職しそびれたんです。僕だけ就職しないで残っていたので、田中先生が、仕方がないから「決まるまでうちにいらっしゃい」と言ってくれた。ちょうどNDCを辞められて青山一丁目に事務所をつくられた時です。初代アシスタントの太田徹也さんのお手伝いをしていました。

半年くらい経った頃、NDCは関西系の人が多いから「君の大阪弁は大丈夫だ。通じる」というので、山城先生のところに面接に行ったら、話が盛り上がって入れてもらったんです。試験が一応あって翌年4月に入社したら、小西とか吉田臣とか年下が働いている。僕は頭でっかちで、みんなの仕事っぷりについていけない。どんどんどんどん浮いていってしまって……吉田くんなんかだまくらかして版下つくってもらったりしていましたね。ほんとにNDCさまさまですよ。桑沢を卒業してから辞めるまで教わってばっかり。何の仕事も残していない。

桑沢で一番印象に残っているのは、田中一光先生が言ってた「1に体力、2に体力、3、4がなくて5にセンス」やっていう言葉。5にやっと才能やからね。体力をつくれと、精神的にも肉体的にも体力だと、ものすごく叩き込まれましたね。

小西学校で教わったことと実際のことの接点があまりなくて、僕もある意味頭でっかちでしたね。デザイナーの名前とか作品はわりあい知っていたので、永井一正さんや田中一光さん、木村恒久さん、片山利弘さんなど錚々たる方たち、憧れのデザイナーがいる会社に行くだけでドキドキしましたね。仕事なんか何もできなかった気がしてますけど。

長友いやあ、僕から見たらすごかったですよ。

小西いや、実態はそうじゃない。今と違って、文字を書いたり写植を貼ったりという手作業の部分がすごく多かったですから、手だけはある程度こなせないと恥ずかしかったですね。

原弘先生は今考えると、現在の僕くらいの年だったと思うけど、親父くらい年が離れてまして、その頃から重鎮で、たしか武蔵野美術大学の教授をされていたと思うけど、ともかく雲の上のような人の数メートル横に座っているわけですから。

長友小西くんは先生の横にいる人だから、僕らは一目置いていた感じがしますね。

小西実態は本当にそうじゃなくて、僕は毎日びびっていて、会話は全くできなくて、仕事上の会話しかできませんでしたね。ヒエラルキーというか、原先生、亀倉先生、山城先生が3人頭にいて、その下に有名なアートディレクター……スターだよね……がいて、僕らは「その他」って感じだったよね。「その他」の中ではコミュニケーションがとりやすかった感じ。

長友「その他」は「その他」なんだけど、原先生の部屋にいるのは選ばれた人。僕らはブルペンにいてさ、先生の下のチーフクラスのデザイナーの人がピンチヒッターとかピンチランナーとかを呼ぶのをじーっと待ってるようなもんですよ。バット振って存在理由を知らしめて、「オレはやるんだー」とか言いながら。だから、コンペに出して名前を覚えてもらわないと、と思ってね。

何かをやりたい。「サイレンサー」結成

小西当時の記憶っていえば、先生の仕事ももちろん一生懸命やらなきゃいけなかったんですけど、日宣美という非常に大きな存在があって、トモさんみたいに簡単に僕は入選できなかったから、けっこう一生懸命になってやりました。若い人は、みんなほとんどやってましたね。みんな遊びたい盛りの夏なんだけど……。

長友6~7月になると明裕国際会館の冷房が夜中は切れるのね。暑いから裸になって、窓開けて。シルクなんかやるお金ないから、ポスターカラーでB全パネルに自分で描くんだよね。色見本もないし。色をつくっていくのが大変なんですよ。

小西ふたりともコンペに精を出していたね。僕の感覚で言うと、一番が日宣美、その後に朝日広告賞、毎日デザイン賞、あと凸版印刷のカレンダー、大日本印刷のカレンダー……コンペといえば出していた。

長友ほんと、コンペ荒らしですよね。いまだに「こんなすごいメンバー!」と思うのはね、写真に高梨豊さんでしょ、コピーに高橋睦郎さんでしょ。みんな協力してくれるわけ。そんなの今ではねえ、仕事では絶対できないじゃないですか。そういうことがすごくNDCでは勉強になった。仕事なんかやらせてもらえないから、コンペの時に高梨さん、沢渡朔さん、有田泰而さんとかに頼むのね。ほんとにキラ星のごとくの新進カメラマンがいたからね。

小西今思うと、会社はそういうことに対して鷹揚で、むしろもっとやれというような空気があって、文句も言われない雰囲気でしたよね。

長友機材から紙から使い放題だったね。

小西ほんとにそうだったね。

長友深夜にハイヤーで帰ってたもんね。でも普通の仕事でもトヨタの人が、アサヒの部屋に来て講評し合っていましたよ。途中から入室禁止とかになりましたけど、昔は自由に出入りして。

小西そういう意味では大きな家族みたいで、いやすかったですね。

僕は原先生のアシスタントを6~7年くらいしてから、アサヒビール、その後、野村證券のチームに行ったんだ。野村證券はけっこう何年もやっていたけど、考えてみたら20代のADなんて今どきなかなかいないですよね。それは僕が優秀だったからではなくて、人が少なかったからかもしれないよね。

長友僕なんかADなんてやらせてもらえなかったよ。あっ、駿河銀行! 思い出した。この撮影が高梨さんだけど、この撮影が河口湖かどこかで、帰ってきて夕方、NDCに着いたらみんな拍手してくれるわけ。で、何かなあと思ったら日宣美賞をもらったの。コレ、ものすごく覚えてるなあ。日宣美賞まさか獲れると思わないですよ。高梨さんがまず握手、いや、写真を撮ってもらったのかな。記念に撮っとこうって。その写真はどこかにいってしまったけど(笑)。

小西僕も賞を獲ったことがあったけど、違う会社にいるそういう人達とコミュニケーションをとれるようになってきて、みんなでなんかやろうよみたいな話になって、メールギャラリーという作品をみんなでつくったんですよね。

長友68年くらいだったかな。

小西日宣美で知り合った人が多いよね。それで、普通の展覧会ではつまらないから郵送する展覧会をつくろうと言ってね。

長友お金ないから会議室かなんかでみんな詰めて、箱をつくって。会社の仕事であんな一生懸命やったことないんだけど(笑)。僕たちふたりでしょ。青葉益輝、桜井郁男、高橋稔、上條喬久……最初はそれだけかな。

小西メールギャラリーをつくった後で、僕はジャンルをもう少し広げて、いろんな人達と知り合って一緒に何か運動なり表現なりをしたいと考え始めて、メールギャラリーのメンバーが基本になって、写真は誰がいいとか、こんな造形作家がいる、戸村浩さんていう人の展覧会がおもしろかったから呼んでみようとか、『平凡パンチ』の編集者がおもしろいから入れようとか、コピーライターで優秀なのがいるから入れようとか言って膨らましていったのが、「サイレンサー」っていう最初のグループ。

長友30歳になったかならないかくらいだよね。僕がNDCを辞めた頃、K2つくる前。倉俣史朗さんが年上で、伊藤隆道さん、田中信太郎、戸村浩……。

小西写真で加納典明、長浜治、沢渡朔、鋤田正義さん。記録に残ってないけど、展覧会も3回くらいやっているんだよね。本になったのは、活動の中のひとつで、『新婦人』という池坊の雑誌に各自が何頁か連載していたのをまとめたんだよね。

長友今どきそんなのやる出版社なんかないよね。

小西原稿料がたまったんで、みんなでバーをつくろうっていって、六本木にバーをつくったり……。

長友いろんなことをやってましたねえ。「パロル」っていうスナック。

小西メンバーはタダで飲める。でもすぐ潰れたんだよな。

長友持ち逃げされたんだよ。雇ってるバーテンさんに。

「俺たちはここにおる!」

長友その頃ね、永井さん始め先輩方は活動されていた。松屋で「ペルソナ」展とか。一番若い人で横尾さんだったよね。日宣美がなくなる前に学生運動も起こって、最初から「なんやろな」と思いながらやっていた感じもあるんですよね。

小西「サイレンサー」はアンチ日宣美みたいなこととは違う活動だと考えていたけど、現実に日宣美会員にもなっていないで批判するのも癪だから別の活動としてやっていた、みたいな感じはあったよね。

長友サイレンサー以降、あんまりそういう動きはないよね。それだけみな、安泰というか、ある路線が引かれたんだろうな。

小西メールギャラリーなんて、各自が大枚を出し合ってたんだよね。当時の給料からすれば。

長友給料といえば初任給いくらやった?

小西俺はね、9千円かな。

長友そやろ! 俺も、9千円やった。忘れもしない、蟻田善造さんが、「君、申し訳ないけど、桑沢は各種学校だから、9千円で辛抱してやってくれ」と。「大学は1万なんぼだったんだけど、ばっと上がる時があるから」と。それを信じてたんですけど、日宣美賞を獲ってもばっと上がらなかった。笑い話なんだけど、日宣美賞を獲ったら給料10倍とか言われてた時代なんですよ。

小西アルバイトもバカバカ入るぞと。誰が言ったか知らないけど、僕らもそれをもろに信じてたね。そんなことはなかったですけど。

長友よく話をするけど、NDCに入る前に、早川良雄先生の大阪事務所に実習に行っているんです。先生が絵を描いていて、アイ・ジョージとかの告知ポスターを描いておられるのを見て、その時に黒田征太郎と知り合うんですけど、黒田に「あれ、先生ギャラいくらかなあ?」と聞くと、こう、指を1本出すんですよ。10万くらいかなあと思ったら100万。それで僕は不純な動機で、デザインは儲かんねんなあ、これは行かねばなあとこの道に入ったんですよ。9千円の時、100万ですよ。今でもポスター1点にイラストレーション料100万くれるとこないですよ。当時、山城隆一先生はデザイナーで初めて、長者番付に載ったんですよ。それで亀倉先生がつけたのが、千駄ヶ谷の「稼ぎの森の王子様」というあだ名だったんですよ。で、今考えたら先生だって30~40代かなあ。それで稼いでおられたわけですよ。でも早川先生にしても、関西人こそ宵越しの金は持たないって、ばーっと飲んでおられたから、私もついつい……その血を受け継いでしまった(笑)。

小西僕らがいる頃というのは、あっという間にスターデザイナー達がみんな独立された時期だったよね。それどころか、御大の亀倉先生まで出られて。そういう意味で言うと、会社は同じでもかたちはどんどん変わっていった。時代とともにね。そんな気がしてます。

長友僕は山城先生の下にいたから、原先生って昼間お会いしたことない。部屋の背中しか見たことないくらいの感じでした。

小西よく寝てましたから。お昼前に来て、ざるそば食べられて、それでだいたい寝るんだよね。ちょこちょこってラフ描いて僕のとこに回して、また寝てるんです。不思議な人です。それなのに仕事量はかなりやっていた。出版関係が多かったですね。山城先生もそうだけど、ものすごくみなさん仕事が速くなかった?

長友うん、速い、速い。決断が速いんだよね。なんかグチグチやってない。

小西すぱすぱっと決めて。世代かもしれないし、当時の技術からいって何通りも描くのが大変だったというのもあるかもしれないけど、今みたいにすぐ何通りも出てどれがいいかというのと全く違ってたね。一点集中だから速かったのかもしれない。

長友山城先生の下に植松国臣さんという素晴らしい方がいてね、この人がね、若手をうまく使われる。旭化成でも海のものとも山のものとも分からない子なのにバシっと使う。大竹雄介も新人だけどばっと使う。それがものすごい自信になるんですよね。だから僕なんか、そういう場がないといかんと、コンペ出しながら叫びまくってた。「俺はここにおるー!」って。そしたらあんまり言い過ぎて、「あいつはちょっと使いにくいな」とか(笑)。

小西僕が野村證券をやっている頃は20代半ばぐらいで、そこに行って生意気なこと喋ってるのが、今考えると笑っちゃいますよね。だって証券のことも株式のことも何も分かんないでね。今考えると冷や汗どころの騒ぎじゃないんですけど、企業のほうも、まあこういう職業だからこいつら何も分かってないけど、ちょっと言うことを聞いてあげようか、みたいなやさしさがあったんじゃないかなあ。

長友僕なんか大阪弁でプレゼンすると、ものを売っているみたいな感じになって、「安うしときまっせ!」みたいな喋り口になってしまうのに反省したことありますもん。大阪弁てこういう不便なところがあんねんなと思って。

小西だいたい東京系があの頃少なかったんじゃないかなあ。原先生の出身は関東ではあるけど長野でしょ。僕は東京で、あんまり出身は意識してなかったけど、トモさんなんかと付き合って、上の方たちの関西弁も聞いていて、すごく魅力的に感じましたね。うまい具合に使える言葉だなとか。映画とかでは耳にしてても実生活で聞いたのは初めてだから、便利な言葉だなコレ、っていうのがすごく印象にあったね。

新しいメディア、新しいカルチャー

長友K2をつくったのは、黒田と一緒にやろうということと、30前に会社をつくったほうがええやろ、と思ったから。結婚と同じで30過ぎるとずるずるラクなほうに行ってしまうだろうということでやったことは確か。まだ日宣美賞もらう前だったと思うけど、伊勢丹さんが「日本の助手さんてよく働くし、世界でものすごい重宝されてるから」とリナシェンテで働くのはどうかって声をかけてもらったことあるんですよ。それをきっかけにNDCを辞めようかなと思っていた。それで、山城先生に相談したら、「あほか」と。「言葉もできんのに、大阪弁も日本語もボチボチやのに、どないすんねや」って言われてね。すごい説得力というか、そうだなと思ったのは、東京で一番になったら日本で一番やろ。そしたらこっちから志願して行かんでも向こうから「来てください」と来る。だから日本で頑張れ、と言ってもらった。そういう考えもあるなと思いながらね(笑)。NDCでは何も仕事がない時ですけどね。そしたらたまたま次の年に日宣美賞をもらった。よし頑張るぞと思ったけど給料は上がらないし……。でもいろいろなことがきっかけになって辞めたんですよね。NDCがどうこうじゃないんですよ。NDCでものすごくいろいろなことを勉強して感謝していますね。自分は何も遺せなかったけども、僕らにとって学校以上の学校ですよね。

小西僕は31歳で辞めているんだけど、トモさんの結婚の話じゃないけど、僕も不平も不満もなかったけど、このままNDCにいて、なんというかまあ、空が開けないみたいな感じはしていた。閉塞感みたいなものを感じていて、周りでトモさんなんかが独立したり活躍したりしていたので、ともかく場を変えてみたい、と思っただけで、そんな大した理由はなかった。僕はサントリーの仕事がやりたかったからサン・アドでやってみたいなと思って、社長の坂根進さんに言ったら「今ちょうど社員の首、切っているところだから半年待ってくれ」って。オイルショックの頃かな。それで半年経って入ったんですよね。

NDCと違ったのはね、その頃のNDCは人数が多かったから、ラフスケッチを描くのにイラストの部署に描いてもらったりプレゼンの写真を写真部に頼んだりとシステマチックにできあがりつつあった。僕はどこに行ってもそうだろうと思っていたら、サン・アドは何でもかんでもひとりでやらなければならない。そもそも開高さんたちがそうやって広告つくってきたらしいんですよ。それはちょっと面食らったね。入ってすぐに、サントリー系列のパブがあるから、その壁に貼る絵をかけ、とか言われてね。僕、イラストレーターじゃないのに「ええっ!?」と思って。それも明日までに描いて来いとか滅茶苦茶なこと言われるんです。しょうがないもの描いて持って行ったんだけど、その後長いことサントリー本社の下のパブに飾ってありましたね。自分で何でもやらなくちゃならないというのが逆に新鮮で、デザインの原点というか、32にもなってそういうことを教わったなという気がしましたね。

長友K2はエドワーズというアパレルのハウスエージェンシーから始まったのね。エドワーズのビルを倉俣史朗さんがつくられたので、ビジュアルも変えようということで。小川隆之さんが撮った写真を「デザインしてみない?」ということで始めたのがきっかけですね。プッシュピン・スタジオが全盛で、最初の頃の仕事はプッシュピンのパクリばっかりですよ。

小西あっ、ヘンなこと思い出した。トモさんとふたりでNDC時代にアルバイトをしていたよね。『平凡パンチ』の一番いい頃に、表紙のディレクション。

長友ふたりで隔週でね。

小西絵は大橋歩さん。会社でもきっと分かってたと思うけど怒られなかったね。2~3年くらいやってたかなあ。すごい量ですよ。

長友ふたりでやったら怖くないって。弁解としてはね、NDCではエディトリアルデザインをやっていないっていうのはあるわけじゃないですか。広告のアルバイトとかそんなんは気軽にできへんけど、NDCでやってないことやったら許されるやろうというのがあったんですね。NDCもエディトリアルやっていかなあかんと勝手に思いつつ……そんなの余計なお世話ですけど。ちょうどその頃、週刊誌ブームで、いろんなとこから創刊されて。

小西ただ、まだ週刊誌の場合は表紙だけデザインが求められていて、中はそれほどでもなかったですね。

長友原先生は『太陽』とかのエディトリアルをやっておられたけど、平凡出版の堀内誠一さんとか、文化出版の江島任さんとか、わりと近い年代の人たちが雑誌にADとしてクレジットを入れた最初の人達ですからね。

小西メディアということに関して言えばね、僕ら「サイレンサー」では何かコトを起こそうみたいな意識が強くて、メディアを使いこなそうとまでは思ってなかったけど、結果的にはわりとそういうふうになったかもしれない。会場にこだわりたくないからメールギャラリーにしてみようとか、既成のことじゃない新しいことをしたいというのが共通の考え方で、それを勝手に模索していたという感じでしょうかね。

長友当時、マクルーハンのメディア論が流行ってたんですよ。活字が衰退するとか言っていて、活字派の人間としては冗談じゃないとか思いながら、メディアにはものすごく興味がありましたね。

小西あとアンディ・ウォーホルとか。彼の絵というより、映画つくったり、生活だったり、言動だったり、ああいうのがすごくショッキングだった。

長友出身がデザイナーとかイラストレーターなので親近感があって、ファクトリーというのに憧れたんです。ああいうのをつくりたいなって。自由に入って、自由に話し合って。好きなことやって、酒飲んで、そういうのがすごいな、と。ホントに憧れましたよね。

小西広告でいうと、ニューヨークのクリエイティブ集団DDBとかPKLとかがつくった広告が次から次へと出てきて、なんかすげえなこれ、という……。広告では輸入の多い時代だったかもしれないな。

長友サイケデリックという言葉もね、『平凡パンチ』が捕まえてきたんだ。サブカルチャーとか。

小西僕はめちゃめちゃ広告が好きだったんです。原先生のアシスタントの頃はエディトリアルだから、逆に広告の世界に憧れていたのかもしれない。サン・アドに行ったのもその理由からかな。だけれども、椎根和さんが『Hanako』をつくるのでデザインしてくれと言ってきて、もう僕は独立していたんだけど、創刊から手伝ったんですよね。そしたらすごくおもしろくて、雑誌って特に生き物みたいにどんどん変わっていくわけです。それにどう対応していっていいのか分からないんだけど、そのへんがすごく面白かったですね。広告と両方やるのは時間がなくて死にそうでしたけど。

長友僕は広告はほとんどやってない。雑誌とか本の出版の広告とかはやるけど、いわゆるメーカーさんの広告はほとんどゼロに等しい。

小西トモさんのところはデザインっていう広い領域に目を向けていて、外から見ていると、広告なんてその一部じゃないの、エディトリアルも一部じゃないのっていう感じがしますね。

長友蒸気機関車に乗って大阪から東京に来て、桑沢から現在まで50年ちょっと。その間に日本はものすごく変わってるんですよ。僕らがNDCにいた頃なんて東京タワーが建っていく「三丁目の夕日」の時代やし、まだ青山なんか土の道があってオリンピックでやっとこさ舗装になるとかいう時代やし。そこからだんだんとデザイン……考えたら戦後のサブカルの真っ只中にいたわけですから、そこにデザイナーとしての僕の職業が位置するわけです。グラフィックデザインという中でサブカルを見ていた。だから映画にも突っ込み、放送にも突っ込み、いろいろなところに顔を突っ込みながら、K2の今があると思う。そういうセンスがNDCで養われたと思う。桑沢ではなかった。

小西現在から見ると、時代の移り変わるスピードがすごく速くて、だからおもしろかったんだろうなと思いますね。現在から見ると、ですけどね。その頃はそれが普通だと思ってますから。僕はサン・アドにいる時が高度経済成長期で、海外ロケは当たり前。雑誌でも海外は当たり前。アリゾナ、メキシコ、ブエノスアイレス、ニューヨーク……。

でも、やっぱり僕はグラフィックデザインの中で広告を見てきたと思う。広告をやっている頃は、あんまりよその広告が気にならなかったですね。グラフィックデザインだと、こういうのがあるのか、ああいうのもあるのか、こういう素材があるのか、こういう表現があるのか、という絶えずそういう面白さがあるんですが、広告はちょっと違うという感じが僕はしている。NDCだろうがライトパブリシテイだろうが、いいのはいいで分かりますが、自分の制作に跳ね返ってくるようなことはなかった。

長友梶さんのような広告って今つくれないでしょ。デザインに悲しみを盛り込めばいいとかというような発想自体がもうないもの。あの頃は文学性を求めたり、広告にいろいろなことを求めていたけど、これはもう違うと。今そんな広告ないでしょ。今は違うんですよ。全部広告と言ってしまえない何かがある。細谷(巖)さんはずっとそれを守ってこられているから偉いなと思いますよ。なかなかできないよ。

これからのデザイン

長友でも逆に今からなんかおもしろくなっていくのかなという気がする。いまだに梶さんの広告なんかに感じる人がけっこういるわけでしょう、若い人でも。ひと握りでもいいからそういう若い人が出て来たら違う展開になるだろうと思う。新聞広告というかたちではなく違うかたちであっても、あの気持ちがどこかに伝わっていくのではなかろうか。

こういうふうに昔のことを喋っているけど、懐かしいとかそういうのじゃなくて、そういうことだよ、ということを若い人に知っておいてもらって、次に伝わっていったら僕がNDCにお返しできたなと思うけども。

小西どの時代でも何かしらあるんですよね。どの時代でも変わりつつある。ずっとそのままでいるという考え方や表現なんて、1回もなかったと思うんです。厳密に俯瞰してみれば、それの高さや深さは違うにせよ、いつの時代でも今は変わり目だとか、今行き詰ってるとか、ちょっと長く生きていると何回もあるから、今言われているのも「またか」と思うね。

長友NDCにいる時にはね、原先生がやっておられることが全く理解できなかった。文字の選び方とか、派手さはないけども地味なことをコツコツやっておられた原先生の偉さが分からなかったんだけど、今になって「あ、そういうことやったんや」ということがいっぱい、原先生の本見てて感じんねんね。

小西紙とかね。

長友紙であり、色であり、今で言うフォントであり。そういう気の配り方とか、そういうことに若い時は気がつかないんだよね。先生が、デザインとかいう大上段ではなく、深く静かに一般の人達に、デザインってこういうものだと提供し続けて来られたのがやっと定着してきて、エディトリアルデザインとして……特に装丁とかね、定着してきたと思う。今本当につくづく思う。すごい人の横にいさせてもらったなと思う。田中一光先生も雑誌とかが好きで、そういうものの見方をずっとされてたからね。自分でつくったりもされていたし。起承転結を大事にしようとか、逆に崩すことでまた新しい何かが出てくるとか。それは桂離宮もそうだとか、実際に連れていってくれて教えてくれた。展覧会を構成する時にも必ずそういうストーリーがあるのね。歌舞伎とか能の「序破急」という言葉などをエディトリアルに落とし込んで、実際にそういうところに連れて行ってくれるんです。本当にお世話になりましたよね。

小西トモさん、そんないい話してくれたのに、僕は逆に目先の派手なほうに……(笑)。若気の至りとはこういうことを言う……。

長友そんなことは先生たちみんなお見通しだったような気がする。そこがNDCの良かったところのような気がするんだよね。「やれ! やれ!」いうような感じで突き放してくれてたんだよね。

小西20代の10年間は良かれ悪しかれ、それがベースみたいな気がしますね。今まで話したみたいに、デザインをベースにいろいろ考えられる仲間がいたり、いろいろなものを見ることができたり、自分でもそういうことをやっていけたということでしょうか。反省点は、どこかパターンナイズされたところかな。20代でフリーになった人から見たら、「頭、硬いな、コイツ」と言われるところがあるかもなあ。

長友僕は、NDCで仕事はほとんどやってないからね。人についているというか、田中先生がNDCを薦めてくれたことで、小西であり、同期の吉田臣であり、宇野さん、横尾さん、原田さんは辞められていたけど、NDCの先輩やということで訪ねて行けるわけじゃないですか。みんな快く晩飯を食わしてくれたり、酒飲ましてくれたり、そういう人のつながりはものすごくばーっと膨らみましたよね。横尾さんは新宿でアングラの人達を紹介してくれたり、亀倉先生とはそんなに接点はないんだけれども、山城先生が「やらしてやってくれ」と言ってくれたり、そういういろいろな広がりができた6年間。NDCの仕事はほとんどやってないにも関わらず、おもしろかった。ポスターをつくるにしても、その頃はスタイリストもいないものだから、助手が恥ずかしがりながら下着売り場に行くわけ。永井さんが「フリルの付いたこんなん買って来い」って……今でも覚えてるわ。「ジュリアン・ソレル」いう前衛的な下着屋さんがあって、そこに顔を真っ赤にしながら買いに行った記憶があるなあ。全部アシスタントがやるんですもん。いろいろな仕組みを覚えたり、それでまたいろんな人と知り合っていったり……。

僕ね、いま『クリネタ』という雑誌をつくっているんですけどね、「クリエイティブなネタ本」。60年代の話とか、遊び歩いた話とかいろんな人がいろんなことを取り上げている。読むデザイン雑誌。これは、若い人に何か伝える方法やと思っている。事務所の人間だったら僕のやってることを見たらええわと思うけど、他の人は見れないじゃないですか。できあがってしまったものを見たところで過程とかは分からない。だからもうちょっとそういうのが分かるようなものをつくりたいと思ってね。

小西おもしろいんだけどね、本当に。でも若い人に伝わるかどうかは分からないな。

長友本当は若い人に読んでもらいたいけど難しすぎる。若い人達と僕達に共通言語がない。「何を言うてんのや、このオッサン」みたいな、若い人に何を言ってもしょうがないやろ。やっぱり、田中先生やないけど若い人は体力的にダメだね。行動範囲が狭い。展覧会にも酒場にも行くことしないじゃないですか。好奇心がなさすぎる。まず、好奇心。それは基本だと思う。遠かろうが、近かろうが、体動かさないと。そこから始まっていくような気がします。

小西その通りだと思うね。どれだけデザインが好きかということを自分で認識しなくちゃいけないし。好きじゃなかったらやる必要ないんじゃない。どれだけ好きかを各自がもう1回考えてみて、好きじゃなかったら辞めたほうがいいんじゃない。

長友そうそう他にいっぱいあんねんから。

小西1に体力、2に体力……。

長友それ、田中先生の言葉だからね。ただ私は実践してる。

2009年11月6日

長友啓典(ながとも・けいすけ)
1939年大阪生まれ。桑沢デザイン研究所卒。64年日本デザインセンター入社。67年日宣美賞受賞。69年黒田征太郎と共同でK2設立。『写楽』『流行通信』『GORO』(紀信激写)、『野生時代』『月刊カドカワ』『ESSE』『TOUCH』『流行通信オム』『週刊朝日』『週刊宝石』『週刊サンケイ』『週刊現代』などのエディトリアルおよび、西武、ロイヤルホテル、つかしん、丸井などのアートディレクションを手がける。各種広告ポスター、イベント会場構成のアートディレクター、また村松友視、阿佐田哲也、山口洋子、阿久悠、海老沢泰久、佐木隆三、椎名誠、内海隆一郎、早瀬圭一、伊集院静ほかの小説に挿絵、雑誌にエッセイ連載など。主な受賞に73年東京ADC賞、84年講談社出版文化賞さしえ賞、2001年第22回日本宣伝賞山名賞受賞、06年第37回講談社出版文化賞ブックデザイン賞など。日本工学院専門学校グラフィックデザイン科顧問・東京造形大学客員教授。
小西啓介(こにし・けいすけ)
1943年東京生まれ。都立工芸高校図案科卒。61年日本デザインセンター入社。原弘氏に師事。東京オリンピック、平凡社、河出書房、筑摩書房、朝日新聞社、日経新聞社、国立近代美術館、株式会社竹尾などでブックデザインを主体に従事。ADになってから、朝日麦酒、旭化成、トヨタ、野村證券など広告に従事。74年サン・アドに入社。ホンダ、サントリー、新潮社などをADとして担当。82年小西啓介デザイン室設立。主な広告制作のクライアントは、 丸井、AGF、パルコ、福武書店、カネボウ、三菱自動車、根津美術館、NTTデータ、NTT、鹿島建設、銀座三越、JR東日本、第二電電、さくら銀行、第一製薬、三井不動産、三菱地所、トヨタなど。小学館、講談社、平凡社、福音館書店、光琳社出版、六耀社、マキノ出版、光文社出版、新潮社、山と渓谷社、マガジンハウス、JCBのメンバー誌『THE GOLD』などのブックデザインを行う。雑誌『Hanako』は創刊からADとして参加。主な受賞に、 日宣美展奨励賞、特選。東京ADC賞。東京ADC会員賞。朝日広告賞。毎日広告デザイン賞。広告電通賞など。
*吉田臣(よしだ・しん)
グラフィックデザイナー。1944年東京生まれ。65年日本デザインセンター入社。72年退社後、73年コミュニケーション・アーツ アール設立。
*有田泰而(ありた・たいじ)
写真家。1941年福岡生まれ。東京綜合写真専門学校卒。64~66年日本デザインセンター在籍。67年よりフリー。80年頃より並行して油絵を描く。現在、画家としてアメリカ・カリフォルニア在住。
駿河銀行ポスター
駿河銀行ポスター 1968
AD 永井一正 D 長友啓典
P 高梨豊 C 森山京
CL 駿河銀行
*サイレンサー
1969年に小西啓介、長友啓典、黒田征太郎のほか、浅葉克己、加納典明、桜井郁男、上條喬久、鋤田正義、倉俣史朗、高橋稔、日暮真三、戸村浩、青葉益輝、長浜治、椎根和、伊藤隆道ら15名によるデザイン集団として始まり、後に『平凡パンチ』の編集者椎根和などメンバーが追加。個々の活動をひとつの運動体のように連携させつつ展覧会などを行う。雑誌『新婦人』で連載形式で発表された写真、イラスト、漫画、オブジェ、詩、エッセイを1冊にまとめた『サンドイッチサイレンサー』(1974年、王立出版)が唯一の記録。なお、解散はしておらず、現在も時々、「飲み会」のかたちで活動が行われている。
サンドイッチサイレンサー
『サンドイッチサイレンサー』
1974 王立出版
サンドイッチサイレンサー
『サンドイッチサイレンサー』より見開き、
「桜・その七」
(企画 小西啓介 写真 藤川忠)
*植松国臣(うえまつ・くにおみ)
グラフィックデザイナー、アートディレクター。1927~2006年。伊勢丹宣伝課を経て、60~62年日本デザインセンター在籍。
*大竹雄介(おおたけ・ゆうすけ)
イラストレーター、グラフィックデザイナー。1939年東京生まれ。武蔵野美術大学グラフィックデザイン科卒。64年日本デザインセンター入社。68年よりフリーで活動。
円は離陸した 野村證券新聞広告
野村證券新聞広告「円は離陸した」
1971
AD 小西啓介 D 高石憲男、松沢義明
C 松浦康雄
サントリーオールド 新聞広告
サントリーオールド 新聞広告
1979
AD 小西啓介 P 繰上和美
C 開高健
サン・アド時代の小西啓介作品
*坂根進(さかね・すすむ)
アートディレクター。1931~98年。鳥取県生まれ。54年に寿屋(現・サントリー)に入社、宣伝部にて開高健らと『洋酒天国』を編集。64年にサン・アド設立に参加。74~84年社長。退社後に坂根企画を設立。優れた発想、企画でデザイン界を牽引した。
*小川隆之(おがわ・たかゆき)
写真家。1936~2008年。オーソン・ウェルズ主演のニッカの広告写真などが代表作。
*『平凡パンチ』
平凡出版(現・マガジンハウス)から1964年に創刊された週刊誌。イラストレーター大橋歩の斬新な表紙イラストで話題となる。69年の表紙ADに長友啓典、小西啓介が交互に担当。
平凡パンチ
『平凡パンチ』
1969年8月4日号表紙
AD 長友啓典
平凡パンチ
『平凡パンチ』
1969年7月14日号表紙
AD 小西啓介
*堀内誠一(ほりうち・せいいち)
アートディレクター、イラストレーター、絵本作家。1932~87年。東京生まれ。57年アドセンター設立に参加し、一方で絵本、挿絵画家として活躍。69年退社後、『anan』『POPEYE』『BRUTUS』など数々の雑誌のアートディレクションを手がけた。
*江島任(えじま・たもつ)
アートディレクター。1933年東京生まれ。東京藝術大学美術学部卒業後、文化出版局の『装苑』編集部に入る。その後『ミセス』『NOW』に立ち上げから関わり、『月刊PLAYBOY・日本版』『四季食彩』『Pumpkin』など数々の雑誌のアートディレクションに携わる。
*ハーバート・マーシャル・マクルーハン(Herbert Marshall McLuhan)
英文学者、文明批評家。60年代にあらゆる視点からの斬新なメディア論を展開して話題を巻き起こした。
*DDB(ドイル・デーン・バーンバック)
1949年、ビル・バーンバック、ネッド・ドイル、マックスウェル・デーンによって設立された広告代理店。「広告は説得である」と言い、それまでの広告には見られなかったビジュアル・ランゲージを生み出し、50年代の最もクリエイティブな広告代理店という名声を博した。数々の人材も輩出した。
*PKL(パパート・ケーニング・ロイス)
DDB出身のグラフィックデザイナーのジョージ・ロイスとコピーライターのジュリアン・ケーニングが、1960年に設立したクリエイティブ・エージェンシー。DDB後の新たな広告を展開した。
*サイケデリック
1960年代後半、極彩色で夢幻的なイメージを持つ美術、ファッション、音楽などが流行した。LSDや大麻などのドラッグによって生じる幻覚や心理的恍惚状態に似たイメージ、あるいは恍惚状態への扉とも言われる。
流行通信
『流行通信』
1979年4月号表紙 流行通信
AD 長友啓典 I セルジュ・ルタンス
写楽
『写楽』
1981年1月号表紙 小学館
AD 長友啓典 P 篠山紀信
*細谷巖(ほそや・がん)
アートディレクター。1935年神奈川生まれ。県立神奈川工業高校工芸図案科卒業後、ライトパブリシテイ入社。「男は黙ってサッポロビール」などに代表される、コピーライター秋山晶氏との黄金コンビで多くの名作をつくり続けている。現在、同社取締役会長。
もののふの遺産 根津美術館 ポスター
根津美術館「もののふの遺産」ポスター 1992
AD 小西啓介 P 高久良一
365人日めくりカレンダー
JAGDA「365人日めくりカレンダー」プロジェクト 2009
小西啓介はプロジェクト・メンバーのひとり。
活字で読むデザインマガジン クリネタ
『活字で読むデザインマガジン クリネタ』
編集・発行人 長友啓典
発行 クリネタ 発売 宣伝会議
2008年春に創刊。
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デザインのポリローグ 日本デザインセンターの50年(誠文堂新光社)

この記事は弊社の創立50年を記念して発売された書籍「デザインのポリローグ日本デザインセンターの50年」からの再録です。

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