対話 05

写真をめぐる対話

高梨豊 × 沢渡朔 × 西直樹

写真と広告

西今日は、NDCの写真の大先輩にお話をうかがいたいと思います。まず始めにおふたりが写真を始められたきっかけをお聞きしたいのですが。

高梨写真を本格的に始めたのは大学に入ってからです。都立でしたけど、野球に夢中で写真部もなかったんですよ。大学受験になって、高校の図書館で学校案内みたいなのを見て、数学がなくて入れるのが日大藝術学部だった(笑)。その中で写真ならできそうだ、ということで選んだ感じでしたね。絵は好きだったけれど、画家なんてとても家では許してくれなかったから、写真は代償行為みたいなもんですね。だから朔さんみたいに高校の時から写真がうまくて、というのとはちょっと違う。

西沢渡さんは高校時代から写真部で、コンテストに応募されたりしていたそうですね。

沢渡スポーツをするタイプではないので写真部に入ったんだけど、そこが活発だったんでおもしろくなっちゃって。日大二高でしたが、3年の時にもうコンテストに出しておもしろくなっちゃっているから、何の迷いもなく写真学科に行くしかないと。

西当時は、カメラもフィルムも手に入れるのに大変お金がかかると言われていたそうですが、新しい表現メディアという意識だったんでしょうか。

沢渡そう、とんでもなく費用がかかりましたよね。

高梨僕は養父が写真がわりと好きで安いカメラを持っていたので、それを借りて撮っていました。こんなにお金がかかるとは思ってなかったですね(笑)。

沢渡大学の時は、キヤノンの「L1」と「ペンタックスK」のブラックとか2台くらい持ってました。

高梨Kって「ペンタプリズム」でしょ。僕は大学に入ってから、自分のカメラを買ってもらったの。それがキヤノンの「4SD」と「2D」かな。

西学生時代から暗室は自分でつくっておられましたか?

沢渡僕は自分でつくりましたね。

高梨僕も2年くらいの時につくりましたね。そんな立派なものじゃないけど。フィルム現像するのが怖かったんですよね、失敗するんじゃないかと思って。初めはフィルム現像だけDP屋に出して、プリントは自分でやって課題を出していたら担当の先生に見破られてね(笑)。フィルムののり方で分かる。「高梨お前、これ自分でやってないな」って。

沢渡へえ、そういうのは分かるんだね。

高梨やっぱ分るんだよ、先生だからね(笑)。それからですね、自分で現像するようになったのは。

西その後、高梨さんは日大を卒業されて桑沢デザイン研究所の夜間にも行かれていますね。写真の他にデザインの造形的な必要性も感じて学ぼうということだったのですか?

高梨大学出て、受験した新聞社とか全部落っこちてね。あの頃は、広告写真のことを「商業写真」と言っていました。そのスタジオに小僧として入っていたんだけど、仕事を見ていると、デザイナーが紙っぺらを持ってきて、「こういうふうに撮って」と言うでしょ。写真家は撮るんだけど、フィルムも必要だし小僧も必要。一方、デザイナーはその紙っぺら1枚でギャランティの半分を持っていってしまうのよ。だからデザイナーのほうがいいかなとちょっと思ったりしてね(笑)。それと大袈裟なことじゃないんだけど、写真の周辺をちょっと知ったほうがいいと思って、桑沢のリビングデザイン科の夜間部に2年通ったんです。あの頃、建築もやらされましたよ。もちろんグラフィックとかレタリングとか。先生もすごかったね、宇野亜喜良とか建築家の篠原一男も講師に来ていたりとかしてね。

沢渡へえ、宇野さんが? ふたつ上でしょ? おもしろそうですよね。

高梨あんまり親に負担をかけてはいけないと思ったので夜間部に行って、昼間は仕事なんてないから自分の写真を撮って、夕方になると桑沢に行ってね。夜間部って、美容院のマダムとか幼稚園の先生とか印刷屋の版下とか、そういう人が自分の仕事を伸ばそうとして来ているからみんな熱心なんですよ。僕たちが登校する時、昼間の学生とすれ違うわけ。格好から何から違って、あれはおもしろかった。

西高校の時に同級生に「おまえは土門拳になれ」と言われたそうですね。

高梨友人のひとりは画家になろうと思っていたのね。今、画家になってますけど、そいつは画家の名前挙げないで「俺は小林秀雄になる」って言うんです。もうひとりは文学やっていて「俺は亀井勝一郎になる」って。俺は何だか分からないから聞いていたら、「お前は土門拳になれ」って言われて。その頃土門拳って、写真家の代名詞みたいなもんだったから。

沢渡木村伊兵衛じゃないんだ。

高梨土門拳って字面もかっこいいじゃない。木村伊兵衛ってなんかヤワじゃない(笑)。僕はその時、土門拳って知らなかった。知ってた?

沢渡知るわけないですよ(笑)。

高梨日大には部会というのがあってね。僕は報道部会に入ってた。

沢渡ポートレート部会とかカラー部会とか、商業部会とかあったね。

高梨ポートレートなんて軟派っぽい(笑)。報道っていうと潔い感じじゃない?それで入ったんだけど、あんまりおもしろくなかった。

沢渡僕は風景部というのに入っていて。部長がおもしろかったのでヌード撮影会とかよくやっていて、風景は撮ったことがないんですよ(笑)。

西沢渡さんは大学卒業後、すぐNDCに入られましたね。

沢渡僕は大学卒業が9月なんです。単位を落としたからね。でも卒業する時には8つくらいレギュラーの仕事を持ってました。大学2年くらいから仕事してましたから。日本広告写真家協会公募展の奨励賞を在学中に貰いましたから。雑誌の仕事がほとんどで、嘱託になっているところもありました。

最初は、篠山紀信がライトパブリシテイの社員だったから、よく遊びに行ったりしていて、入れてもらおうかなと思っていたけど、入れなかった。そしたら早崎治さんが山城隆一先生を紹介してくれたので、その足で山城先生に会いに行ったら、やさしい人でね、入れてくれたんです(笑)。

高梨僕も山城さんでした。僕はNDCの前にアドセンターに誘われたんですけど、そこには生え抜きの立木義浩が大スターでいてね。立木が『週刊平凡』の「ウィークリーファッション」をやっていた頃。ものすごくいい仕事でね。僕の仕事はなくて立木義浩には仕事がある。みんなついて行っちゃうから、僕はひとりスタジオに残って、しょうがないからお掃除したりしていたんだけど、半年ばかりして耐えられなくなってた。それを桑沢洋子さんが、見るにみかねて亀倉さんに頼んでくれたの。

ところが亀倉さんはNDCに写真はいらないと考えてたのかなあ。写真の奴らは会社の材料とかいろいろ使って、技術ができると外にすぐ出てっちゃうから、最低限の人数でいいよ、と言っていたみたいでね。だから亀倉さんがいる時には僕は入れなかった。亀倉さんが辞めた後、「亀さんが辞めたからおいで」って山城さんが言ってくれた(笑)。僕は1960年に最初の個展をしてね、62年に「標的」という個展をした時にはNDCに入ってた。

亀倉さんはニコンの仕事が多かったでしょ。ニコンのカメラはNDCに頼むとよく写らないと言うんですよ。ヘタクソだって、全然信用がない。僕が入ったら、ニコンを撮れって言われた。確かにカメラは難しいんだよね。シボっていうのかな。もうひとつは梨子地なしじでしょ。黒と白みたいなもんだから、両方出さなきゃいけないし。ニコンの仕事ではね、徹夜で作業しましたよ。写真がヘタだって言われてたから……。鈴木恒夫さんがライトパブリシテイから来てね。暗室とかがすごくうまい人で、面倒見のいい人でね。あの人にいろいろなことを教わりながら。

沢渡僕は知らないんですよ。お会いしたことはありますけど、僕がセンター入った時にはいなかった。

西NDCの写真のベースをつくられたのは、鈴木恒夫さんなんですね。ライトパブリシテイとNDCの交流はあったんですか。

高梨交流というより、かなり意識していましたね。

西こちらがニコンならあちらはキヤノン、こちらがアサヒならあちらはサッポロとか。

高梨僕はアサヒビールもやりました。撮影の季節になると毎日、東宝スタジオにこもるんです。ビールの撮影では、泡とビールとの比率が決まっているんですよね。会社によって違うんで、その比率で撮らなくちゃならない。ビールの泡って最初は荒いんですよ。こぼしながら泡が細かくなったら、最後にひゅっと注ぐわけ。いいぞ、という時にストロボで撮るんです。だからデザイナーには助手の泡係がひとりいたの。あの頃は後藤一之、優秀なイラストレーターですけど、彼が泡係でしたね。ビールは臭いがスタジオにこもっちゃって飲みたくなくなる(笑)。シズル感というのをすごく言われていたな。ライトはサッポロに関係していたでしょ。その頃は永井さんがビールをやっていたかな。

ニコンでは東宝スタジオに冷蔵庫を持ち込んで、テグスでダミーのカメラを釣ってね、毎日デザイナーの助手が水をかけにいって凍らせて撮影したりね。凍るまで1週間以上かかる。ライトをあてると溶けちゃうからストロボでね。何か受賞したんじゃないかな。ニコノスでは水中で撮ったのもあるよね。プールに潜ってこの商品で撮ったの。なかなか写らなくてね。プールは乱反射が多くて、ハレーションが多くて苦労したな。

西沢渡さんが入社された時は、高梨さんがニコンの顕微鏡の写真も撮っていたそうですね。

高梨僕は沢渡朔という人の写真を前から見ていたんですよね。前から才能あると思っていたから。でも、助手としてはどうか分かんないな、と(笑)。

沢渡高梨さんの助手を何回やったかな。銀座4丁目から重い荷物を持って、東宝スタジオまで歩いてね。僕は高梨さんくらいしか使ってくれなかったから。

高梨仕事があれば、会社にちゃんと来る人なんです。会社だから仕事なくても来なきゃいけないんですけど、仕事がないと本気にならないから来ないわけですよ。だから管理するほうとしては困ってたわけ(笑)。管理部の人がね、「沢渡くん、会社にちゃんと来てくれないと……」って言ったら、沢渡くんが「じゃあ僕辞める」って言ったんだって(笑)。

沢渡えー、覚えてないなあ(笑)。でもあの時分、学校出たてで反抗していたかもしれないけど……まあ、助手になってなかったね。

高梨デザイナーが山城さんの時で、あの頃、沢渡さんがアビー・リンカーンというジャズ歌手がすごく好きで、「そのレコードを聴いてもいいですか」といってね、僕も好きだったから、ポータブルプレーヤーを持ってきて、東宝スタジオで撮影中にかけるわけ。

沢渡ヘレン・メリルと、「サムシング・エルス」は覚えているけど(笑)。

高梨それをかけながら重役と僕は一生懸命撮影していて、沢渡さんは後ろでゆったりしてるの(笑)。でもあれは、とても優雅な時間でしたよ。

「撮る」ということ

西当時の組織はどういう感じだったんでしょうか? 暗室があって、進行がいて、カメラマンがいて……アシスタントを入れて総勢20名くらいですか。

高梨そうですね。ライトパブリシテイのほうが、コマーシャルは早いでしょ。NDCのほうはグラフィックデザイナー主体ですよ。だから、その意味では写真の使い方も向こうのほうが長けていたんじゃないかな。コマーシャルメッセージを伝えるのがうまかったでしょ。だから僕なんかもNDCにいられたのかもしれないなあ。

西当時、おふたりがいらしたときの、写真部とデザイナーとの関わりというのは?

高梨ライトパブリシテイがどういうやり方をしていたか知らないけど、スケッチがあって、その通り撮るということでしょうね。何と言うかな、あんまりこなれはよくなかったかな(笑)、関係もね。写真はヘタだと言われているし。複写が多かったしね。

沢渡僕は複写ばっかりしてました。仕事がゼロだったので、複写くらいしないとね。だからNDCには僕の作品はないです。

高梨違う言い方すると、デザイナーが沢渡さんを使いきれなかったんじゃない? 彼のような個性を理解して使うのは難しいと思いますよ。もったいないって感じでしょ? ライトパブリシテイでは篠山さんがばんばんやっていくというか、写真の人が個人作品を発表するのをものすごく奨励してサポートしていたよね。こっちは「デザインセンター」で、「写真センター」じゃないんです。ライトは信田富夫さんっていう人が大体写真の人で、村越襄とかものすごく写真を分かっているんですよ。下手すると、写真家はデザイナーに撮らされちゃうって感じがあるくらいなんだね。逆に、NDCの写真はそうじゃないから、沢渡さんとか深瀬昌久がいられたんだと思う。大学の時からすごい先輩がひとりいるなと思ってて。深瀬さんの傑作あるでしょ、東芝のおばあさんの広告。すごいですよね。

変な言い方をするけど、そういう雰囲気に朔さんは耐えられなくなって早くに辞めちゃって、深瀬さんも頑張っていたけど、結局、河出書房に行ったよね。コマーシャルのスケールからはみ出ちゃう人が一時でもいられたのは、ライトパブリシテイじゃないからということね。それがNDCの懐だと思いますよ。

西沢渡さんは2年半くらい在籍して辞められたわけですが、ファッション、特に女性を撮ろうと思ったのがきっかけになったのですか?

沢渡NDCに入る前なのか入ってから決めたのか分からないけど、女性を撮りたいと思っていたんですね。NDCに入って女性が撮れるかと思って入ったらば、そういう仕事はなかった。会社がどういうものか分かってなかったしね。ライトパブリシテイみたいなところかと思ったらそうではなかったし。

やっぱり女性を撮るんだったらファッションだし、退社してファッション写真を細々とやっていきながら、だんだん仕事が増えていったんです。

西『少女アリス』とか『nadia』の作品集を発表したのは『anan』が出てからですか?

沢渡『anan』のほうが先で、1970年頃からですね、その頃から写真がおもしろくなってきた。あの頃が一番よかったですね、時代も僕も。あれがクライマックスかなあと思って(笑)。

高梨確かにあの頃って、NDCではファッション写真の仕事はなかったよね。物撮りなんかが多くって。

沢渡全くなかったですよね。当時ファッション雑誌は、『ドレスメーキング』『装苑』『若い女性』など、4誌あったんですよ。そのあと『anan』が出ました。

西沢渡さんは『anan』の仕事をやりながら作品集をつくられていたんですか。

沢渡『nadia』は71年くらいから撮りはじめて、73年に展覧会をやったんです。自由に女を撮りたい、という気持ちがあってね。『カメラ毎日』で毎月連載をやってもらって、1年くらい経ってから展覧会をやりました。

西高梨さんは在社しながら「東京人」をカメラ毎日に発表し、『プロヴォーク』にも参加されていますね。

高梨辞めるちょっと前だね。中平卓馬に誘われた時─銀座の喫茶店に誘われたからよく覚えているけど─まだ勤めてた。ああいう過激なことをやるのに勤め人では良くないんじゃないかと相当考えましたね。中平が熱心に誘ってくれたんでね。だから、広告っていうのも過渡期というか、造成期と言っていいんじゃないですか。

沢渡そうですね。

高梨NDCは学校みたいなところがあったでしょ。それが素晴らしかったんですよ。デザイン界とかだけじゃなくて、違う人を講師に呼んできて勉強してる。山城さんが武満徹を呼んだり、瀧口修造も山城さんと一緒に会ったこともあるよね。音楽家とかいろんな人が来ていましたよ。きっちり会社って感じじゃなくて、なんかこう、非常にフレキシブルな会社だったと思う。

沢渡僕は短いからあんまりそういう印象はないけどね。

高梨自由度はあったでしょ。横尾ちゃんとか高橋睦郎も写真部に遊びに来ていたり。

西沢渡さんの『nadia』でも高梨さんの『初國』でも、高橋睦郎さんが文章をお書きになっていますね。

沢渡NDCで2年半の間に知り合った人とは、高梨さんもそうですけど、高橋さんともずっとお付き合いがあります。

高梨安西均さんという詩人もいたんですよね。いい詩人ですよね。僕らあの頃、分かんなかったから、ただのおじさんだと思ってたけど、すごい詩人なんだよね。あの人が九州から高橋さんを紹介して。コピーをアサヒビールに持っていったら、つっかえされたとかよく言ってましたよ。で、本格的に書き始めたらとんでもないっていうことでね。

沢渡宇野亜喜良さんも今でも。NDCにいた時、睦郎さんが詩集を出すというので、写真の部室で睦郎さんのヌードを撮ったりね(笑)。なにしろ、僕は宇野さんとは仕事ができるような立場ではないですからね。ファンですよ(笑)。絵本なんか『海の小娘』とか。『あのこ』なんていいですよね。サインしてもらったりね、睦郎さんは年が近いから仲良くしていたね。

西NDCを辞められて沢渡さんはファッション雑誌を中心に精力的に活動し、高梨さんは『面目躍如』を出版されていますね。

高梨NDCの時「オツカレサマ」という連載を『カメラ毎日』でやっていたの。最初スナップなんかを撮っていたんだけど、山岸章二さんが「お前、広告の仕事やってるんだから人物写真くらい撮れるだろう」って言うんですよ、ひとつやってみるかってことで、そこから人物写真を勉強したんですね。木村伊兵衛から何から繰り返して見て。

自然な写真がいいと言われていたけど、普通に撮ったんじゃあおもしろくない。シュールレアリスムの本を学生の時、少し読んでいたのもあって、それじゃあ強引に演出してみようと思ってやったの。その時にNDCでのライティングとか、まさに広告でやっていたことは本当に役に立った。スタジオワーク、スタジオの使い方とかね。「オツカレサマ」が僕の人物写真の始まりかな。初めにあんなとんでもないことやっちゃってね。

西人物写真において高梨さんは、当時その分野の第一線で活躍されていた男性を撮ることが多く、沢渡さんは女性ですね。

沢渡僕は、ほとんど女性ですよね。ちょっとバタくさいのが好きなんですよね。

高梨この人はね、好きなものをやらせたら天才ね。生意気ですが、写真家で本当は天才っていないと思うのね。写真家は、モノを借りてきて撮るわけじゃない? 人物でも景色でも。天才っていうとゼロからつくる人だと思うから、写真家に天才は無理だなと思うんだけど。でも写真家の天才はふたりいると思うのね。ひとりはこの人です。もうひとりは名前は言わないけど(笑)。

沢渡そう言われても……(笑)。嬉しいですけど。

高梨そもそも天才は勤め人になれっこないんだから(笑)。

沢渡よく生きていられたなと思うもん。

これからの写真、写真のこれから

高梨僕は、来年で後期高齢者になります。だから今、中気(中期)高齢者なので手ブレに気をつけてる(笑)。

沢渡僕は来年で70。でも全然そのつもりもないですからね。そんなこと言ってたらグラビアアイドルを撮れない。まだまだ撮りたいですからね。

西『面目躍如』のなかで、草森紳一さんが話されていますけれど、当時高梨さんは、状況的にシリアスな写真を撮りつつ、広告のカメラマンとしても有名だった。ある意味正反対の写真を同時に撮られていたわけですが、どんな思いがあったのでしょうか。

高梨特別自分ではシフトしていませんね。広告というのは、日常からいくばくかジャンプしなければ広告にならない。僕がスナップをやっているのは日常の「地べた」。そこからある種、普通の人が興味や憧れを持つような距離ね。「地べた」は憧れじゃない。その距離を測定することが可能なら、地べたから測っても無駄じゃないと思っている。例えば、トヨタのおばあさんのようなヒューマンな写真というのは、同じようにやっていますよね。

ただ、現在の広告写真の基準は、たぶん「地べた」じゃないよね。ヘブンなんだよね。天からどれくらい測定して、消費者というか一般の人を引っ張るかということだと思うんです。時代が違うんです。だから僕は当時は広告をやることができたと思う。あまり矛盾は感じてませんでしたね。

沢渡僕はフリーになってからも、もちろん広告もやっていましたけどね、ギャラがいいし。人物を撮るならファッション写真の流れでできる。でも僕は広告を一生懸命やろうとは思わなかった。雑誌のほうが好きだし、性に合っていると思う。僕の中で広告はちょっと違うなとずっと思っていたからそのうちやらなくなって、仕事が来なくなりました。

西当時、意識されていたライバルとかは?

沢渡意外といないですね。同級生の篠山は学生の時から見ているけれど、常に僕の3つくらい上を行っていたから。やっぱり眺めているだけですごいよね、彼は。僕はマイペースでやるしかない。逆に彼がいたからマイペースでやろうと思ってた。

西「天井桟敷」のフィルムも回されましたね。

沢渡そう、あの頃は、映画撮りたいっていうのが夢ですからね。自分で3分くらいのプライベートフィルムをつくったりしてました。当時はヌーヴェルバーグの影響がすごかったですからね。寺山修司さんが前から映画をやろうといってくれたから、テクニックなんか何も知らなかったけど、本当に楽しみにしていたね。

西現在のNDCでも10年くらい前からデジタル化が急速に進み、銀塩のフィルムはほとんど使われなくなりました。企業側も積極的に効率化の観点からデジタル化と同時にコンピュータ・グラフィックスを活用し静止画から動画の制作をしている時代です。当然、私達写真グループの仕事の絶対量も減っています。銀塩フィルムやデジタル撮影で培った経験やノウハウを中国で活かそうということで、5年前、中国北京に進出して車の撮影もできる専用スタジオを設立しました。

沢渡デジタルの時代になると写真も広告も変わるよね。

西撮り終えたものはすぐ、オペレーターの人が画像処理をして完成形にしていくわけですが。フィルムで育った人にとっては、デジタルとの作業プロセスの違いは大きいと思います。

沢渡デジタルって現場の緊張感がないでしょ。映画の中のフィルムとビデオの違いみたいな感じじゃない? 撮ったものを同時に見てるんだもんね。

西デジタルだとフィルムの現像までの「ちゃんと映っててくれよ」っていう不安感はないですね。精神的なイライラ感はある程度解消されますけど。

高梨僕はそういう不安感みたいなものがないとダメだと思う。生意気だけど、僕はポラロイドを撮らない写真家と言われてました。ポラロイド撮ると、それが解消されちゃうわけ。

僕はディレクターと仕事をしていても、後ろにいる人が絶対に見てない写真を撮ろうと思ったの。見てないはずないんだよ、そこにいるんだから。だけど、絶対にこの人達が分からない瞬間を撮ろうと思ったんです。それ、あんまりやりすぎると仕事なくなっちゃうけど(笑)。

ポラロイドを撮ると一度エネルギーがなくなるから。だけど、どうしてもポラを撮らないといけない時はありましたよ。そのタレントをその時撮り逃すと、半年先まで撮れないとかいう場合はね。そういう時は一緒にいる人が不安だからポラを切るんだけど、モデルが目を瞑っているところとか、アクビをしているところを撮るの。イメージが全然違うものをデータとして見せて、俺が撮るものはこんなものじゃないって、距離を置くようにしてみせるわけ。

西鈴木八朗さんと「ディスカバー・ジャパン」とか、ゼロックスの「ブラック・イズ・ビューティフル」を撮影された時にも、そのようなことを言っておられましたね。

高梨鈴木八朗さんは、今では当たり前だけど合成するのがすごくうまいんです。見事だと思いますけどね。僕、「旅って一回性のものだろ、それがなんでこんなふうに……」って乱暴なことを言っちゃったんだよね。そうしたら、あの人からの仕事は来なくなった(笑)。

「ディスカバージャパン」を初めやってた時、後半が合成になってくるんですよね。あの人はコピーも一緒に考えちゃう。おもしろかったのは、一緒に仕事に行くと彼も写真を撮ってね。僕のがボツになったのもあるもん。ハチローのが駅貼りで、僕のが中吊り(笑)。どうしてかっていうと、彼はコピーからコンセプトからが全部分かってるから。それは、もうしょうがないよね。

西沢渡さんは「フルムーン」を撮られましたね。

沢渡高峰三枝子と上原謙の3作目まで鈴木八朗とやりました。フィルムも僕、回してます。演出は大林宣彦。フィルムのライティングでスチールも撮ったから、結構楽だったね(笑)。

高梨このあと「チェルシー」もあったよね。

僕は一時、広告をちゃんと勉強してみようかと思って、久保田宣伝研究所のコピーライター養成講座に行った。つまらないからすぐ辞めちゃったけど、僕はコピーというより「言葉」、意味論などに結構興味ありましてね。コピーは全く違うものだったというのでバカらしくて辞めたんですが。

西たとえば、『初國』、辞書には「初めて造った国」と書かれています。最初から言葉の意味を考えて撮られたんですか。

高梨ドイツ中世史の歴史学者の阿部謹也氏と小学校の友達でね。いろいろアドバイスをもらった。伝説の王子「初国知所之天皇はつくにしらすめらみこと」(1973年)という8ミリ映画を撮っている原将人という人がいましてね。『アサヒカメラ』で彼のポートレートも撮っているんですけど、その8時間もある映画も見ましたね。ただ、「國」というのはどうしても天皇制がつきまとうでしょう。それで調べてみたら「ランド」というのは「王制の国土」なのよ。それが成立する前の未成の大地という意味で、「Pre-Landscape」としたんです。

感じ入るような言葉があればスケッチノートに全部メモしているんです。「初國」のときは5冊くらいになっていたんだよね。だからブックデザイナーに頼む時には、それを見てもらうの。

西おふたりはこれからどのような写真を撮っていこうとお考えですか。

高梨埴谷雄高に「不合理ゆえに吾信ず」という作品がありますが、その言葉が好きですね。どんなにドミネートされていっても、写真には消化が悪いところがある。それが魅力なんだと。小骨がのどに刺さるというような要素が写真からなくなったらダメね、そう思って僕は次の作品もやります。今はパスのやつ(「silver passin’」シリーズ)やってますよ、老人パスで。駄洒落みたいなタイトルだけどね、シルバーパスっていいでしょ、銀塩写真と爺とシルバーパスと全部かけてんの(笑)。

沢渡僕はずっとグラビアを撮っていきたいですね、それがやっぱりおもしろいですよ、僕は。立派な作品残せなくても、女性を撮る仕事で、何かつくっていければね。まあ、僕は量でいってるからね(笑)。70代でも80代でも撮りたいものがあるでしょう。まあ仕事があればね。ただ、仕事がないかな、グラビアアイドルがいるかどうか(笑)。

高梨僕はなるべく長く写真を撮りたいと思っているから、やっぱり身体はね。小一時間の散歩もそのためですよ。若い頃は結構乱暴な酒飲みでしょうがなかったけど、ちゃんと今はね、写真が長く撮れますようにと。

沢渡写真自体撮れなくなったらつまらないですよ。僕は腰と膝があんまりよくないから、筋肉つけないと、と思ってジムに行ってるけど、行っているほうが調子がいいしね。

西写真家と肉体は切り離して考えられないということですか。

沢渡若い時とは比べられないけど、やっぱり撮影の時は動きたいから、肉体しかないでしょ。

高梨老いは来るんだけど、その時々が反映されて作品になるというのもあるからね。年とってからの女性写真っていうのも違ってくるかも。

沢渡僕はそれがないかもしれないですけどね。

高梨それが沢渡朔の年のとり方の写真ですよ。谷崎潤一郎みたいになることじゃなくて行ければ最高ですよ。

沢渡そうかもしれないですね。

2009年10月7日

高梨豊(たかなし・ゆたか)
1935年東京都生まれ。57年日本大学藝術学部写真学科卒業。G・フォトヤギに就職。59年写真家大辻清司に出会う。桑沢デザイン研究所リビングデザイン科入学。61年卒業後日本デザインセンターに入社。広告写真、ファッション写真などを手がける。68年『プロヴォーク』同人に参加(70年活動休止)。70年日本デザインセンターを退社、フリーランスとなる。カメラ毎日連載「オツカレサマ」(64年~)などのポートレートや都市をテーマにした「東京人」(66年~)などの作品を発表し現在に至る。主な受賞に、64年第8回日本写真批評家協会賞新人賞、67年第5回パリ国際青年ビエンナーレ写真部門大賞、84年および93年日本写真協会年度賞、93年「写真の会」賞など。主な写真集などに『都市へ』『町』『東京人1978-1983』『都市の貌』『面目躍如』『初國』『地名論』『NOSTALGHIA』『囲市』『われらの獲物は一滴の光』『ライカな眼』。2009年個展「光のフィールドノート」(東京国立近代美術館)を開催。現在、東京造形大学客員教授。
沢渡朔(さわたり・はじめ)
1940年東京都生まれ。63年日本大学藝術学部写真学科卒。高校時代に雑誌『サンケイカメラ』の月例コンテストで一等、二等、佳作を受賞。63~66年日本デザインセンター在籍。66年よりフリーとして『ハイファッション』『anan』などの雑誌のファッション写真や広告写真、数々の女性アイドル写真集を手がける。主な受賞に、73年日本写真協会年度賞、79年講談社出版文化賞写真賞など多数。主な写真集に『nadia 森の人形館』『少女アリス』『海からきた少女』『小沢征爾』、真行寺君枝『シビラの四季』、伊佐山ひろ子『昭和』、三國連太郎『Cigar』、ヒステリックグラマー『hysteriec ten』『Kinky』など。
西直樹(にし・なおき)
1950年、鹿児島県生まれ。75年日本大学藝術学部写真学科卒業。77年、日本デザインセンター写真局入社。朝日広告賞、毎日広告賞、日経広告賞、日本産業広告賞等入選。2000年、02年「年鑑日本の広告写真」収録。06年「西直樹の写真」発表。06年「現代日本の写真vol.7」収録。08、09年中国で「Audi A6L」「Audi A8L」のシリーズが汽車広告賞受賞。現在、日本デザインセンター取締役。全社画像統括と北京和創図文制作有限公司総経理を兼務。
NDC時代の高梨豊(左)と沢渡朔(右)
年代不明
P 角田研一
写真提供 沢渡朔
*篠原一男(しのはら・かずお)
建築家。1925~2006年。53年東京工業大学卒業後、東京工業大の教壇にたちながら住宅を中心とした実作を手がける。その作風は前衛的で形而上的でもあった。
*土門拳(どもん・けん)
写真家。1909~90年。山形県生まれ。代表作『古寺巡礼』を始め、さまざまなジャンルの傑作を残す。リアリズム写真において木村伊兵衛と双璧をなす。
*木村伊兵衛(きむら・いへい)
写真家。1901~74年。東京生まれ。報道・宣伝写真やストリートスナップ、ポートレート、舞台写真など、さりげない日常を切り取る。対象を突き詰めて撮る土門拳と好対照であった。
*篠山紀信(しのやま・きしん)
写真家。1940年東京生まれ。59年日本大学藝術学部写真学科入学。沢渡朔と同期。在学中にライトパブリシテイ入社。68年よりフリーとなり、常に話題性の高い写真を発表している。
*早崎治(はやさき・おさむ)
写真家。1933~93年。京都生まれ。ライトパブリシテイを経て、65年独立。代表的な仕事に、61年の東京オリンピックのポスター、70年の大阪万博の仕事など。
*立木義浩(たつき・よしひろ)
写真家。1937年徳島県生まれ。58年東京写真短期大学(現・東京工芸大学)卒業。アドセンター設立時にカメラマンとして参加。69年、フリーランスとなる。広告・雑誌・出版など幅広い分野で活躍。写真集『イブたち』『私生活/加賀まり子』『家族の肖像』他、著書・作品集多数。
*桑沢洋子(くわさわ・ようこ)
ファッションデザイナー、教育家。1910~77年。東京生まれ。1954年バウハウスの教育システムを取り入れた桑沢デザイン研究所、66年に東京造形大学を設立。
*鈴木恒夫(すずき・つねお)
写真家。1930年台湾生まれ。鳥取大学医学部卒業後、ライトパブリシテイへカメラマンとして入社。その後、日本デザインセンターの設立に参加。63年よりフリーとなり、ツネヲスタジオ設立。63年から6年間宇野亜喜良と組んだ雑誌『新婦人』の表紙が代表作。
*後藤一之(ごとう・かずゆき)
アートディレクター、イラストレーター。1937~2009年。旧満州生まれ。武蔵野美術学校(現・大学)卒。62~75年日本デザインセンター在籍。フリーとなり数々のレコードジャケットデザインなどを手がける。
ニコンF ニコン雑誌広告
ニコン雑誌広告「ニコンF」
  1964
P 高梨豊 AD・D 内柴正臣
D 柴永文夫 C 桐淵眞一郎
ニコノス ニコン雑誌広告
ニコン雑誌広告「ニコノス」
  1964
P 高梨豊 AD・D 内柴正臣
D 大沢蔦 C 桐淵眞一郎
アサヒ麦酒 67年カレンダー
朝日麦酒 67年カレンダー
1966
AD 永井一正 D 後藤一之
P 高梨豊
*信田富夫(のぶた・とみお)
1910~85年。35年に名取洋之助主宰の日本工房に入り、戦後、写真スタジオ経営、雑誌『FEMINA』のアートディレクターを経て、51年ライトパブリシテイを設立。広告デザイン界の草分けと言われ、数々の広告賞を受賞。
*村越襄(むらこし・じょう)
アートディレクター。1923~96年。兵役後、日本ビクター宣伝部を経て、51年ライトパブリシテイ創立時にアートディレクターとして参加。東京オリンピックポスター三部作のフォトディレクターの仕事が名高い。
*深瀬昌久(ふかせ・まさひさ)
写真家。1934年北海道生まれ。52年日本大学藝術学部写真学科卒業。第一宣伝社を経て、64年高梨豊に誘われ、日本デザインセンター入社。67年河出書房写真部長に就任、68年河出書房の倒産に伴いフリーとなる。
おばあちゃま、ユニカラーです 東芝新聞広告
東芝新聞広告
「おばあちゃま、ユニカラーです」
1967
P 深瀬昌久 AD・D 山城隆一
  C 岡田耕
少女アリス
沢渡朔写真集『少女アリス』
1973 河出書房新社
*『anan』
1970年創刊の平凡出版(現・マガジンハウス)刊の女性ファッション誌。現在の女性ファッション誌の原点。翌年創刊された『non-no』(集英社)とともに、女性向け情報誌として人気を博し、両誌を参考に全国に出没する女性たちは「アンノン族」と呼ばれ、多くのファッションの流行を生んだ。81年より週刊化。
*『プロヴォーク』(provoke)
写真家・中平卓馬、高梨豊、多木浩二、岡田隆彦らによって創刊された写真同人誌。68年11月1日創刊。2号から森山大道も参加。3号まで発刊されたが、総括集「まずたしからしさの世界をすてろ」で廃刊。3号+総括集の出版であったが日本の写真史に残した功績は大きい。
*中平卓馬(なかひら・たくま)
写真家。1938年東京生まれ。60年代に「ブレ・ボケ」を特徴とする作品で写真界に大きな衝撃を与え、70年代に自作の批判的検証を行う。77年に倒れ記憶の大半を失うが、現在も活動を行う。
*武満徹(たけみつ・とおる)
作曲家。1930~96年。滝口修造らによる先鋭的な芸術集団「実験工房」に関わるなど、ノイズや電子音なども含め、音楽の可能性を広げた。
*瀧口修造(たきぐち・しゅうぞう)
美術評論家。1903~79年。戦前はシュルレアリスムを日本に初めて紹介し、戦後は前衛美術を中心に評論活動を多面的に行い、戦後日本の現代美術を批評的側面で牽引した。
nadia 森の人形館
沢渡朔写真集『nadia 森の人形館』
1973 毎日新聞社
初國 Pre-Landscape
高梨豊写真集『初國 Pre-Landscape』
1993 平凡社
*安西均(あんざい・ひとし)
詩人。1919〜94年。福岡県生まれ。福岡師範学校(現・福岡教育大学)中退。43年朝日新聞社入社。上京後も福岡の同人との交流を深め、詩集だけで十数冊、著作も膨大。日本現代詩人会会長も務めた。
*山岸章二(やまぎし・しょうじ)
写真編集者。1930~79年。60年代 終わりから70年代初頭、『カメラ毎日』編集長として、若手写真家の日常へのまなざしを積極的に掲載して、70年代の写真表現の方向性をつくった。
*天井桟敷
劇作家寺山修司(1935~83)主宰の劇団。67年結成。『青森県のせむし男』『毛皮のマリー』などの戯曲を上演するほか市街劇など演劇の境界を広げる。横尾忠則、粟津潔らグラフィックデザイナーが参加。沢渡朔が撮影を担当した実験映画は、「トマトケチャップ皇帝」(1971、25分)、「ジャンケン戦争」(1971、15分)。
ZERO CROWN 新聞広告
「ZERO CROWN」新聞広告
2003
CD 和田英代、岩崎淳一郎
AD・D 高橋圭一郎 P 西直樹
C 和田英代、平田夏樹
PR 金坂好伸
AG 電通
*鈴木八朗(すずき・はちろう)
アートディレクター。1937~2005年。61年博報堂入社後、東京藝術大学入学。68年電通入社。「ディスカバー・ジャパン」「エキゾチック・ジャパン」「フルムーン」など国鉄およびJRのキャンペーン、アップル社日本進出時のキャンペーンなどを手がけた。
ディスカバー・ジャパン 土佐 日本国有鉄道ポスター
日本国有鉄道ポスター
「ディスカバー・ジャパン 土佐」 1973
P 高梨豊 AD・D 鈴木八朗
C 奈良本辰也
ブラック・イズ・ビューティフル ホワイト・イズ・ビューティフル 富士ゼロックス新聞広告
富士ゼロックス新聞広告 「ブラック・イズ・ビューティフル ホワイト・イズ・ビューティフル」 1970 P 高梨豊 AD・D 鈴木八朗  CD 岡田耕 C 桝田弘司
チェルシー 明治製菓ポスター
明治製菓ポスター「チェルシー」
1976
P 沢渡朔 AD 鈴木八朗
C 鈴木八朗、桝田弘司 I 東逸子
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デザインのポリローグ 日本デザインセンターの50年(誠文堂新光社)

この記事は弊社の創立50年を記念して発売された書籍「デザインのポリローグ日本デザインセンターの50年」からの再録です。

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