対話 03

モダニズムについての対話

宇野亜喜良 × 横尾忠則 × 永井一正

モダンとアンチモダン

永井亀倉雄策さんが「21の会」というのを、毎月21日に東京で開いていて、ディスカッションしたり作品を見せあったり、いろいろな分野の人々を呼んで勉強会をしていた1959年頃、僕達大阪の「Aクラブ」の4人、田中一光さんだけは先に東京に行っていたけれど、木村恒久、片山利弘、僕は夜汽車で来て「21の会」に参加してまた夜汽車で大阪に帰るということを繰り返していた。なんとなく4人がひとかたまりで見られていたんで、4人ともNDCに誘われたんですよ。一光さんも僕達3人が入るならライトパブリシテイを辞めて入るよということで、僕達の場合は4人がひとかたまりみたいな感じでNDCに参加したんですね。

宇野六本木の文化会館で月に1回集まっていたよね。「21の会」に出ていた人達はほとんどNDCに誘われたんですよね。これは裏読みなんだけど、「21の会」はその後に開催する世界デザイン会議を引っ張る若者達のために理論的な背景をつくろうという意図なのかなとも思っていたんだけど、実はNDCをつくるのための一種の準備だったのかな。

永井いや、その時の亀倉さん達はNDCの構想があるなんて全く知らなかった。ちょうどいいメンバーが集まっていたからじゃないかな。

横尾宇野さんも「21の会」のメンバーだったの?

宇野僕は、やや遅れていったんだけどね。僕はカルピスを辞めてフリーでいる頃だった。日光東照宮に行ったり、桂離宮に行ったりとかしたね。

永井奈良とか京都をまわったりしてね。その時は大阪にいる僕達が世話役になってバスを仕立てて。

宇野バスガイドが持つマイクを渡されて、感想を言ったりするわけよ(笑)。

横尾関西勢と東京勢の日宣美の会員とは交流があったの?

永井「21の会」で初めて交流があったね。

横尾「21の会」がNDCの設立にも貢献したなんて、実は今日、初めて聞く話なんだよね(笑)。僕なんかまだ駆け出しだったから。

永井NDCができて初めてグラフィックデザイナーが広告を手がけた。それがとても新鮮だったんだよね。ライトパブリシテイは良い作品をつくっていたけど写真中心で、その前から電通とか博報堂のいわゆる「広告」があったけど、NDCがADC賞を始め、いろんな賞を獲っていったので、一挙に注目されたんだよね。

横尾そういう意味で作家集団だったよね。作家集団の前身は日宣美ということなんだけれど、日本の先鋭のデザイナーがこんなに集結したなんてちょっとした事件だね。

永井でも日宣美は展覧会だからね。NDCの理想としては、大企業の広告を良くすることが、結局これから消費社会を迎える日本を豊かにすることにつながる、ということなのだけど、亀倉さんが中心になった時には、ただ売れればいいという広告ではなく、文化面においても、デザイン運動というか、もう少ししっかりしたデザイン美学を構築しようという意図があったわけだよね。ただ我々はグラフィックデザインの理念なんてあんまり高尚なことを考えずに、自分の作品をつくろうと考えていたんだから、それはそれで雰囲気としてとても自由な環境で発足したよね。

宇野デザインの企業としてはね。広告っていうのは、片一方でグラフィックデザインがいいということがイメージの部分では重要な部分であって、その中で永井さんは役割を果たしているけど、永井さんの広告はって言うとね……(笑)。

永井あははは(笑)、下手だよね。だからね、普通のプロダクションとは違うという誇りが持てたのはその一点にかかるんだよね。

横尾今の広告ね、宇野さんが言ったように、うまいデザインはあるけど、我々の時代のデザイナーに比べると、一本、強烈な思想というか哲学に裏付けられた個性が希薄ですね。デザインは確かにうまいですよ、国内だけじゃなくて、国際的にもね。うまいけれども、そこから訴える個の力が非常に弱いなと思う。個の力というのは今やもう必要じゃないのかな、という印象さえ受けますね。

永井それはひとえにコンピュータのせいだと思うのね。パソコンができてこその制作になったわけだから。昔はうんと下手な人がいたけれど、パソコンを使えばある程度それなりに見える。でも平均化・平準化の中でうんと個性的なものがなんとなくなくなるというか……。世の中自体も昔と違って、すごく軽い感じになってきているよね。最近の若者の風潮がそうだけれども。広告表現やデザイン表現も非常に軽くて、一見弱いようだけどなんとなくおしゃれでね。軽くておしゃれというのは、見ていて非常に気持ちがいいんだけれど、ドンとは入ってこない。全体的にすっといい感覚で見過ごしてしまうというような感じになっていると思うんだけれども。

横尾時代精神というか、時代の共通なものの考え方というのがあるけど、我々の時代は、そういう考え方に逆行していたじゃないですか。時代の流行とか時代の潮流に従うのは、現代生活を送る上では非常にやりやすいと思うんですよ。でも果たしてそれだけでいいのかなと思いますね。我々が個々の人間であることを考えた時、太古の時代から人間の気持ちや感情は変わってない。ただ社会だけがどんどんどんどん変わっていく。社会が変わっていくスピードに古代からずっと持っている変わらない人間性がどういうふうに対応していくのかなという危機感は感じますね。

永井その通りでね。だからこそある意味、横尾さんはアーティストになったのかもしれない。現代のデザインにそれが欠けているのが問題で、僕なんかはそれを頑強に守ろうとしている数少ない人間で少数派なんだと思う。昔ほどぶきっちょな人があまりいないんだよね。亀倉さんもすごくぶきっちょでしたよね。ある意味、あまり器用になりすぎるのも危険だと思います。若い人達の中には、表現は違っても、そういうものに共感して目覚めてきている人も逆にいますけれどね。

宇野亀倉さんは、技術的にコンパスをうまく使えなかったとかそういう意味ではぶきっちょな人なんだろうけど、定規を使うデザインが好きだし、コンピュータの時代にいたら、きっとうまく使っていたと思うね(笑)。

横尾ちゃんが言っているのは非常にアーティスティックな部分だと思うんだけど、デザインにもアーティスティックな個性というのは必要だけれども、広告というのには流行の言語みたいなものがあるでしょう。例えば、芥川龍之介が「侏儒の言葉」の中で、「文学は流行の言語を使わないと通じない」というようなことを言っている。芥川というと純文学のボスというような感じだけれど、流行の言語でないと通じない、あるいは言語も変容する、というようなことを言っている。広告も時代の言葉を使わないと通じないし、広告には時代の言葉が一番必要なものだから、時代の流行をそのままで表現するのではなく、3年後にこの言語が流行になっていくだろう、というようなある種の予知能力のように創造的な流行性の言語がつかめれば、かっこいい広告ができるんじゃないかと思うよね。

永井確かに広告にはそういう面があることは昔から事実だけれども、ある意味では言語の変革というのは内容ではなくて表現なんだよね。内容は昔から変わらないよね。横尾さんが言ったように、人間が人間であるためには変わらない確固としたものがずっと連綿とある。その表現は変化していくわけだから、表現の変化につれて内容まで薄い層に吸い寄せられて、厚みが少なくなりつつある。そうではない人もいるけど、全般的にその傾向が特に日本では強いよね。

横尾でもね、永井さん。内容と表現は乖離しているものじゃなくて一体化しているわけだから、内容が貧困であれば表現もある意味貧困であるという論理も成り立つわけですよ。そこが問題なんです。社会的現状がこうだからと現状に迎合したものを与えるのがデザインの使命なのか、もっと未来を先行するのか、過去に戻るのかというと、デザインは未来でも過去でもなく、「いま」じゃないですか。常に「いま」というぎりぎりのところに立っている。塀の上を歩いているような、右が過去で左が未来、みたいなね。そういう非常に危なっかしい立場にあると思うんですよね。

宇野そうだね。

永井「いま」というのを設定するには過去の積み重ねがあって「いま」の時間があるわけですよね。それが未来に移って行く、通過点の一瞬が「いま」だから。だから過去っていうものをもう少しね、過去からの歩みみたいなものが、しっかり身についていないと、的確な「いま」は表現できない。「いま」だけを見ようとすると、つい「いま」の状況に吸い寄せられてしまった希薄なものになりがちなので、過去からの積み重ねのしっかりした芯が弱くなってきているというのが問題なんですよね。

横尾僕が現役の時からそうだけど、デザインの歴史って浅いじゃないですか。その歴史の出発点はデザイン以前にも他の芸術や伝統があるわけですよね。そちらのほうにあまり関心を持たない。デザインをデザインの世界だけで完結させよう、デザインの世界だけを視野に入れていればもういいじゃないか、というようなことが我々の中にもあったような気がするんですよ。映画とか演劇とか文学とか美術とか、音楽など、趣味として興味を持つのはいいけど、そういうものをデザインの世界の中に導入しなくても、デザインはデザインの中で問題は解決できるというところがあったような気がしますね。

永井デザインの歴史は後発でまだ浅いから、なんとかグラフィックデザイナーを社会的に認知させようという意識は強かったよね。日宣美もそうだったから、作家団体にしようとか、絵画的な表現形式であるわけだけれども、あえてそれに投資して年に1回の展覧会を開催をしよう、しかもデパートでやろうということも含めて、なんとか社会的に高く認知させようと意識していたよね。デザイン運動といえばそうで、だからこそ、ある意味では亀倉さんを中心にまとまりもよかったと思う。だけど、横尾さんが言ったように、障壁画であったり琳派であったり浮世絵であったりといった、日本の伝統芸術として評価されているものは同時にデザインでもあったから、日本のデザインの伝統からもう一度学び直して確立していく必要があるよね。

横尾日本の場合の伝統は、ヨーロッパみたいに額縁にはめられた絵画だけじゃなくて、むしろ「用の美」だったわけで、そういう意味では日本の芸術、美術はすでにデザイン的な伝統を持っている。

永井だから60年代に入って日本のグラフィックデザインが注目されたのは、そういう日本人の伝統美術がグラフィックデザインにうまく引き継がれたという気がするね。

宇野日本のグラフィックデザインはどこか工業デザインの理念形態に近くて、機能を追求するために出てくる美とか、イメージとしての機能を果たしているようなスマートさがあったと思う。むしろ俵屋宗達とかは装飾的なものであって機能美ではないですよね。ファンクショナルに突き詰めていくデザインではなく余分で心情的な遊びに類するもの。そういうタイプの俗悪なものが日本にはいっぱいあって、そういうものを横尾ちゃんは取り入れて、我々に衝撃を与えてきた。ひと頃、永井さんも情念という言葉を使っていたりして、そういう発想だったでしょ。装飾的なもの、デコラティブなもの、バロック的にすごい日本。同時に、排除していく機能的なもの、非常にシンプルな日本。いろいろなものを日本は持っていて、簡単にはくくれないよね。

永井そうだね。日本は、「侘び」「寂び」や利休における非常に簡素な世界と、ねぶた祭りとか歌舞伎とかに象徴される世界があるよね。

宇野東照宮とか、俗悪なエネルギーに充ちたものもね。

永井そう、桂離宮と日光東照宮というのは本当に極端に対照的だけれども、その両方が日本だということですよね。

横尾桂離宮にしても、近代と直結しているところがある。だからモダニズムの側から受け入れられやすかった。でも東照宮に関しては対立概念でしょう。どちらかというと感情的だし、今の言葉で言えばキッチュですよ。そういったものを近代デザインが無視したわけですよ。日本の中で、それを一番神経質に、過激に無視したのは勝見勝さんだと思うんですよね。彼の存在をあの当時は肯定できたけど、彼の未来展望は必ずしも正しかったとは言えない。勝見さんの存在はモダニズムに対する批評眼にブレーキをかけたと思うんですよね。日本古来の情念と言っていいか、土着、プレモダンと言っていいか、そういうものを彼は徹底的に否定したわけです。否定しなければ、近代デザインというものは日本で確立できなかった、根を張れなかった。まあ、あの人の功績はそこにあるんだけどね。

宇野勝見さんのクリティックが時代をリードしていたのではなくて、亀倉さんのやっていることが理論に集約されることだったのじゃないかと思うんだよね。クリエイティブな評論というより、世の中を見て、今の考え方はこうだ、それをうまく言う、というものだったと思うんです。

横尾それじゃ単なる解説屋で批評家とは言えないですよね。勝見さんは、近代主義に毒されていましたね。相対的にものを見る人だった。善・悪、美・醜というふうに分ける人だった。そういうものは本来混然一体としているわけです。人格ですら混然一体として、世界そのものがそうじゃないですか。それを一方を排除して、一方を受け入れた。

永井戦前の日本は、名取洋之助さん、亀倉雄策さん、河野鷹思さん、土門拳さんなどが『NIPPON』をつくっていましたよね。バウハウスはもちろん、ロシア・アヴァンギャルドのモンタージュ理論を駆使してね。終戦後、焼け野原で何もなかった時に勝見さんたちがやろうとしたのは、バウハウス的な近代デザインを日本に植えつけて、近代デザインを骨格として日本のデザインを確立させたいということだと思う。グラフィックだけでなく、プロダクトも建築も含めて。これはバウハウスの思想だよね。これを確立させたいということで近代主義を持ち込んだんですよね。

横尾危機感があったからだと思うね。彼の中の近代性が崩壊していくことに対する危機感。ほんの2、3年先に反デザイン的な思想が準備されていたのを危機感として感じていたんだろうね。必死だったと思う。

永井まさに60年から70年にかけて、横尾さんの言うような反デザインが文化とか風俗としても芽吹いて、目の敵にされながらも時代をリードして喝采を受けたのが、横尾忠則だよね。

横尾そういう意味では、勝見さんは両刃の剣みたいな感じがありましたね。僕にとってはそれがかえってよかったのかもしれない。個人的な話になるけど、勝見さんがいなければ、僕もあそこまで反骨的になれなかったというのはありますよね。

永井何かの賞をもらえそうな時、すごく反対されてたよね、勝見さんに(笑)。

宇野東京イラストレーターズ・クラブ第1回の時。自分達で審査をすればよかったんだけど、勝見さん、亀倉さん、瀧口修造さんに公開審査を委託したわけ。僕と横尾ちゃんが最後まで残ったんだけど、横尾ちゃんのに大反対した。

横尾勝見さんが突然、「横尾忠則が賞を獲るなら、俺は降りる」と言い出したんです。降りればいいのにさ(笑)。そうしたら全体に水を打ったように沈黙してしまったんです。援護射撃もそれに対する反論も一切なかったね。和田誠くんはその時のことを、くやしがって今だったら反論するのにと言ってくれた。

永井横尾さんから見ればそうだけれどね(笑)。勝見さんが、東京オリンピック、大阪万博、札幌オリンピックとデザインディレクションして、デザインポリシーを確立していった功績は大きいですよ。

横尾それは僕も否定しないよ。時代の大きな鏡ですね。

宇野例えば、僕達が「ペルソナ」展をやった時、木村恒久がロシア・アヴァンギャルドのパロディをしたでしょう。ロシア・アヴァンギャルドがもはや古くさいからおもしろかったんだよね。前衛すらちょっと時代が経っているからおもしろい。そういうふうにデザインはどんどん古びていく、過去形になっていくものだと思うんです。理論家はそれを言語的に本質を言うんだけど、そうじゃなくて、我々は時代感覚を受けてどんどん変容していく。

横尾ちゃんはファンクショナルなものが不愉快で、土着とかプレモダンなものを取り込んだし、さっき最終ノミネートにふたり残ったと言ったけれども、僕も機能美を追いかけていたわけでもない。僕も横尾ちゃんからすごく影響を受けていたんだけれども、グラフィックデザイナーが求めていた新しいものと同質のものを追っていたわけではないですよね。僕はその頃、もうイラストレーションはデザインとは別のものだと思い始めていたかな。

横尾そうだね。グラフィックデザインの一部だったね。別にグラフィックデザインの中に統括されているっていうよりも、あの頃からイラストレーションがデザインから離脱していくという感じでもあったよね。

宇野さんと原田(維夫)くんと一緒にイラストレーションを中心に仕事をするという「スタジオ・イルフィル」っていうデザインスタジオをつくったのは、完全にイラストレーションだけ自立させたわけではなくて、でもイラストレーションを導入した新しい今までの日本のグラフィックデザインの世界ではまだ試みられていなかったことをしたかったからなんだよね。だけど全く仕事が来なかったんですよね。殺到すると思ったんだけどねえ。日本のイラストレーションの仕事は、全部宇野さんと僕と原田くんが引き受けることになって、大変なことになるだろうなあなんて妄想を描いていたのね。ところが世間はそんな予感さえなかったね。

永井NDCができた時には、僕も田中一光さんも宇野さんだって横尾さんだって、みんなデザイナーとして入ったんだよね。ふたりともすごくデザインがうまかったのに(笑)。

宇野NDCにいた時、僕はイラストレーションの仕事をほとんどしていないんですよ。デザイナーとしてイラストレーターを使っていた。

横尾僕はNDCにいた頃も、一光さんに紹介されたアルバイト的な仕事で外部で盛んにイラストレーションを発表していたけれどね。

宇野永井さんがアートディレクションもして、イラストも自分で描いたのは「DATOC」の時が初めてじゃなかった? 「イルフィル」では、こういうイラストレーションの入ったデザインをやりたかったんですよ。「プッシュピン・スタジオ」みたいな。

横尾プッシュピン・スタジオはイラストレーションもうまかったけど、デザインもなかなかいいわけですよね。アメリカのあの時代のグラフィックデザインをリードしていましたからね。我々みたいにグラフィックデザインもできて絵も描けるというのは、それ以降のイラストレーターの中にはあんまりいないんですよね。イラストレーションはうまいけれども、デザインの感覚は全然だめとかね。

会社で遊んだ頃

横尾僕はNDCに入って、すぐ怪我しちゃったんだよね。入社1週間後に右手を骨折したの。

永井日米安保新条約が成立する安保反対のデモが1960年にあって、みんなでゾロゾロ、デモをしたんだよね。

横尾白地のプラカートに青い鳩が描かれていたね。メッセージが全然書いてないのね。

宇野コピーはどうしようかと話していたら、亀倉さんに「お前達、デザイナーなんだから、ビジュアルメッセージでいけよ」って言われて。で、月桂樹があって、青い鳩が月桂樹をくわえていて、ノアの箱舟みたいなイメージでこれから新しい土地を開拓するぞっていう意味のビジュアルをつくってさ。それを描いていたから、かなり遅れて日比谷に集合するんだけど、なかなか辿り着かなくってね。みんな派手な格好していて、なんだか「キャバレー青い鳩」のサンドイッチマンみたいな感じなわけ。

横尾国会議事堂の前には全共闘も暴力団も右翼もいましたよね。「お前達は、右か左か!」って聞かれるんだけど、思想のないデザイナーはどっちって言っていいか分かんないから、「おたくと同じです!」とか言ってさ(笑)。また全共闘が出てくると「お前達は何者だ!」、「いやあ、一緒ですよ」なんて(笑)。

宇野・永井いかに我々に政治的な思想がなかったか(笑)。

横尾思想闘争なのにさ。誰より思想ないんだもん(笑)。

永井よくのこのこ行けたよね(笑)。

横尾レンガは飛んでくるわ、何は飛んでくるわで、大変だったよね。考えてみたらね。あんな危険なところによく行ったよね(笑)。

宇野でもどこを歩いたか覚えてないね。

横尾うん、だってすごい人の波でさ。どっかにはじき飛ばされたりして。

永井帰りのタクシーで、横尾さんが親指骨折したんだよね(笑)。

宇野今でも青山通りを歩いてるとね、この辺りの地下のお店から出てきて、横尾ちゃんがタクシーのセンター・ピラーに指をはさんだな、という場所があるのね。

横尾僕は、NDCがもう発足していて、メンバーも全部決められていて、人が必要なかったのに田中一光さんと永井さんに無理矢理亀倉さん達を口説いてもらって、やっと入れたのに、6日目で骨折、しかも右手で仕事が全然できない(笑)。

永井あはは(笑)。NDCの発足当時は、もちろん仕事はちゃんとしていたけど、いろいろ遊んだよね。映画、やったじゃない。横尾さんが高校3年生の役で、ラーメン屋の出前持ちしているんだよね。好きな女の子がNDCの受付にいて、入口の扉をあけると口髭を生やした僕が受付嬢といちゃいちゃしてる。それを目撃してショックを受けてラーメンを落とすんだよね。

横尾そう、次のシーンでは、落としたラーメンをどんぶりに入れて……。それを食べるのが重役の原弘さん。ラーメンの中から10円玉か100円玉が出てくる(笑)。その後、僕は涙を流しながら銀座に出て行く。チョビ髭の永井さんと受付嬢が腕を組んで歩いている。それを見て僕はジェラシーで涙を流す。バックから「高校三年生」の歌が流れてくる(笑)。

永井おやつがなかったって、横尾さんが泣いてたこともあったよね(笑)。

横尾昼休みは毎日おやつを食べていて、普通は外出していても誰かがいないととっておいてくれるわけよ。ある時僕が帰ってきたら、みんな食べ終わった後でさ。見たらおはぎの包装紙。お、いいところに帰ってきた、と思ったら植松国臣さんが、「しまった、横尾くんの残しておくの忘れた!」とか言ってさ。そしたら急に涙がぶわーっと出てきて、植松さんに飛びついて泣いてさ。よくあんなことできたよね(笑)。

永井お札をつくって遊んだこともあったね。警察が調べに来たよね。ニセ札を遊びで描いてたんだよね。粗悪な紙でさ。

横尾仕事もよくやったけど、よく遊びましたよね。そういう遊びは、創作にとって重要なんだけどね。今はないでしょ。それが一番の欠点だね。

永井NDCができたのは日宣美全盛の頃だし、世界デザイン会議も開催されて世界中からあらゆる分野のデザイナーが集まってきたし、その理論的構築をしようという動きもあったし、64年の東京オリンピック、70年の大阪万博、72年の札幌オリンピックと国家イベントが目白押しだった。つまり日本自体が経済的にも活気づいている時にできたNDCは、まさに日本経済ののぼり調子と合致したということなんだよね。

横尾世界デザイン会議の頃には僕はまだ大阪のナショナル宣伝研究所にいたんですよ。研究所に入って1年後に東京に出てきた時に田中一光さんに挨拶に行ったら、NDCができるという。「横尾くん、いいんじゃない?」って言われたその瞬間から入りたくなっちゃって。

宇野でも、もう横尾忠則っていうのは、58年の奨励賞の「ふしぎなふえふき」という作品で、我々みんな知っていたからね。

永井それほどまでに、日宣美っていうのは登竜門だったんだよね。

宇野NDCに入る前は僕はフリーだった。21歳で東京のカルピス食品の広告課に入っていたんだけど、名古屋にいた時にもう日宣美の名古屋会員だったの。名古屋会員はそのまま東京会員になれなかったので、一から公募して奨励賞、特選をもらったのが56年ですね。

横尾でもだんだん、NDCの広告中心にした仕事では、自分のやりたいこと、キャラを発揮できなかったんだよね。田中一光さんも辞められたし、亀倉さんも辞められたし、辞めやすかったことは確かだよね(笑)。僕が辞める時「永井さんも辞めたらどうですか」ってしょっちゅうカマをかけたんだけど、「辞めたら辞めたで、仕事が来ないんじゃないかなあ」とそればっかり言うから。あれは本心ですか?

永井本心本心(笑)。もう絶対そういう能力ないから、僕は。いやあ、辞めるほど甲斐性がなかったというか(笑)。でもね1回、辞めるって言ったことがあるのね、会長の鈴木松夫さんに。そうしたらホテル・オークラに呼ばれてね。「僕は君に期待していて、将来NDCを背負って欲しいと思っている」と懇々と説教されて(笑)。梶さんもあるんだよ。小説に踏み切りたいということで。で、やっぱり説得されて留まったんだよね。

横尾我々だって、辞めてから営業全然しなかったもんね(笑)。

宇野仕事があるのが原田くんだけだったもんね。

横尾僕と宇野さんは仕事がないけれども、ちゃんとイルフィルにいてね。

宇野原田くんは夕方になると出てくるわけ。僕らふたりはあまりにも仕事がなくて、マネジャーがいたこともあったね。お金のことを「フィー」とか言うマネジャー。それでもイルフィルにいる時にマックスファクターのシリーズ広告を始めたんだけど。

横尾イルフィル辞めてから仕事が来るようになったんだよね。

永井横尾さんは、もう時代の寵児になっちゃったからね。あらゆる面で。

横尾でも仕事のない時代は時間がありすぎてね。もし1,000万円どこかから手に入ってね、1日で1,000万円をどういうふうに使うかって、それを宇野さんと紙に書いて計画立てたりしたね。ドイツからベルリン・フィルを呼んだらいくらだ、飛行機代はいくら、帝国ホテルはいくらってバカみたいに計算してさ。それでも1,000万円使えないの(笑)。それを夕方までやっても使い切れないから、新宿まで行って喫茶店入って、その続きをして(笑)。本当にお金がないと、誇大妄想狂になってくるね。海の家を借りようとか言ってね。イタリアのアヴァンチュールな映画を観て影響されて、それをやろうって言ってさ。

宇野中年男が若い子と恋愛するっていう映画でね。ウーゴ・トニャツィやジャンニ・ガルコとカトリーヌ・スパークの出ていた「狂ったバカンス」や「太陽の下の18才」みたいなヤツ。

横尾こんな話でいいの? この間もこういう話していたら、何の役にも立たないって新聞に書かれたの。でもさ、役には立たないけれども、でも生き方としては役に立つよね(笑)。結局生き方ですからね、ものをつくるっていうのは。生き方の反映が、作品になるわけですから。

永井うん。それいい言葉だ、それで結ぼう(笑)。

2009年10月16日

宇野亜喜良(うの・あきら)
1934年名古屋生まれ。52年名古屋市立工芸高校図案科卒業。カルピス食品工業の広告課を経て、60年日本デザインセンター設立とともに入社。64年退社後、横尾忠則、原田維夫とともにスタジオ・イルフィル設立。65年解散後、同年スタジオRe設立。「ペルソナ」展に参加、また、灘本唯人、横尾忠則、和田誠等と東京イラストレーターズ・クラブを設立。主な受賞に56年日宣美展特選、60年日宣美会員賞、66年東京イラストレーターズクラブ賞、82年講談社出版文化賞挿絵賞、89年サンリオ美術賞等。99年紫綬褒章受章。主な著作に『海の小娘』(62年、朝日出版社、文・梶祐輔、共著・横尾忠則)、絵本『あのこ』(70年、理論社、文・今江祥智)、『宇野亜喜良全エッセイ・薔薇の記憶』(2000年、東京書籍)など多数。
横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年兵庫県生まれ。兵庫県立西脇高校卒業。神戸新聞社等を経て、60~64年日本デザインセンター在籍。64年宇野亜喜良、原田維夫とともにスタジオ・イルフィル設立。65年解散。同年「ペルソナ」展に参加。72年ニューヨーク近代美術館で個展。81年に画家に転向し、以降、パリ、ベネチア、サンパウロ、バングラディッシュなど各ビエンナーレに招待出品。アムステルダム市立美術館、カルティエ現代美術財団、京都国立近代美術館、東京都現代美術館、世田谷美術館(東京)、兵庫県立美術館、金沢21世紀美術館など国内外多数の美術館で個展を開催。作品はニューヨーク近代美術館など国内外118の主要美術館に収蔵されている。95年毎日芸術賞、2000年ニューヨークADC殿堂入り、01年紫綬褒章受章。06年文化デザイン大賞受賞、08年小説『ぶるうらんど』で第36回泉鏡花文学賞を受賞。
永井一正(ながい・かずまさ)
1929年大阪生まれ。51年東京藝術大学彫刻科中退。60年日本デザインセンター創立とともに参加。現在、最高顧問。多くのCI、マークのほか、80年代後半より動物をモチーフにした「LIFE」シリーズを展開している。主な受賞に日宣美会員賞、朝日広告賞、東京国際版画ビエンナーレ東京国立近代美術館賞、ADCグランプリ・ADC会員最高賞。東京ADC「HALL OF FAME」(殿堂入り)、日本宣伝賞山名賞、亀倉雄策賞、勝見勝賞、毎日デザイン賞、毎日芸術賞、通産大臣デザイン功労賞、芸術選奨文部大臣賞、紫綬褒章、勲四等旭日小綬章、ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ金賞・銀賞・特別賞、ブルノ国際グラフィックビエンナーレグランプリ・金賞、メキシコ国際ポスタービエンナーレ第1位賞、モスクワ国際ポスタートリエンナーレグランプリ、ザグレブ国際ポスター展グランプリ、ヘルシンキ国際ポスタービエンナーレグランプリ、ウクライナ国際グラフィックアート・ポスタートリエンナーレグランプリ、アジアパシフィックポスター展(香港)グランプリなど多数。
*21の会
亀倉雄策の発案で、山城隆一が協力し、六本木の文化会館にて毎月21日に開催されていた若手デザイナーの勉強会。永井一正、田中一光、片山利弘、木村恒久、杉浦康平、福田繁雄、勝井三雄、仲條正義、細谷巖、粟津潔らが参加。
*Aクラブ
1952年に木村恒久、永井一正、田中一光、片山利弘を中心に、大阪の若手デザイナーが参加した研究会。早川良雄や山城隆一などをゲストに招いて議論を戦わせた。
*田中一光(たなか・いっこう)
グラフィックデザイナー。1930~2002年。京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)図案科卒。産経新聞を経て、57年ライトパブリシテイ入社。60年日本デザインセンター設立に参加。63年より田中一光デザイン室主宰。西武、セゾングループ、無印良品を始め、多様なグラフィックデザインを手がけた。
*木村恒久(きむら・つねひさ)
グラフィックデザイナー。1928~2008年。大阪市立工芸学校図案科卒。60年日本デザインセンター設立に参加。64年に独立し、68年頃からフォト・モンタージュ作品を展開。
*片山利弘(かたやま・としひろ)
グラフィックデザイナー。1928年大阪生まれ。60年日本デザインセンター設立に参加。63年ガイギー社の招きでバーゼルに滞在。66年ハーバード大学視覚芸術センターに招かれ、90~96年館長に就任。
海の小娘
『海の小娘』 1962 朝日出版
文 梶祐輔
I 横尾忠則、宇野亜喜良
日本民話グラフィック
『日本民話グラフィック』
1964 美術出版社
横尾忠則「かちかち山」より見開き
(文=高橋睦郎)
あのこ
『あのこ』 1970 理論社
文 今江祥智 I 宇野亜喜良
SANTANA AMIGOS レコード・ジャケット
「SANTANA AMIGOS」
レコード・ジャケット 1974
D・I 横尾忠則
CL CBSソニー
*勝見勝(かつみ・まさる)
美術評論家。1906~83年。デザイン評論、翻訳、東京オリンピックや大阪万博などのデザインプロデュース、『グラフィックデザイン』誌創刊など、近代デザインの啓蒙に尽力した。
腰巻きお仙 ポスター
劇団状況劇場「腰巻きお仙」ポスター
1966
D・I 横尾忠則 CL 劇団状況劇場
1030×728mm
紙にシルクスクリーン印刷
新宿版千一夜物語 ポスター
演劇実験室 天井桟敷 第5回公演
「新宿版千一夜物語」ポスター 1968
D・I 宇野亜喜良
CL 演劇実験室 天井桟敷
1030×728mm
紙にシルクスクリーン印刷
シャンソン ポスター
「シャンソン」ポスター 1968
D・I 宇野亜喜良
CL スタジオエディション
1030×728mm
紙にシルクスクリーン印刷
*東京イラストレーターズ・クラブ
粟津潔、宇野亜喜良、大橋正、伊坂芳太良、横尾忠則、和田誠ら、グラフィックデザイナーやマンガ家26人によりイラストレーションという言葉やイラストレーターの存在を広く認知させることを目的として、1964年に設立された集団。『年鑑イラストレーション』を69年まで発行したが、70年活動休止。
*瀧口修造(たきぐち・しゅうぞう)
美術評論家。1903~79年。戦前はシュルレアリスムを日本に初めて紹介し、戦後は前衛美術を中心に評論活動を多面的に行い、戦後日本の現代美術を批評的側面で牽引した。
*和田誠(わだ・まこと)
イラストレーター。1936年東京生まれ。多摩美術大学図案科卒。59年ライトパブリシテイに入社、68年よりフリー。煙草「ハイライト」のデザインや、雑誌、広告のイラストレーションを手がける。
*「ペルソナ」展
粟津潔、宇野亜喜良、片山利弘、勝井三雄、木村恒久、田中一光、永井一正、福田繁雄、細谷巖、横尾忠則、和田誠の11人が参加し、1965年開催。集団的な広告ポスターと異なる、個人の表現に支えられたデザイン表現を打ち出した。
*原田維夫(はらだ・つなお)
イラストレーター、版画家。1939年東京生まれ。多摩美術大学図案科卒後、63~64年日本デザインセンター在籍。宇野亜喜良、横尾忠則と64年に結成した「スタジオ・イルフィル」解散後、フリー。歴史小説、時代小説の挿絵を多数手がける。
毛皮のマリー ポスター
演劇実験室 天井桟敷 パリ公演
「毛皮のマリー」ポスター 1971
D・I 宇野亜喜良
CL 演劇実験室 天井桟敷
1030×728mm
紙にシルクスクリーン印刷
DATOC DM
大和證券「DATOC」のDMシリーズ
1962~63
AD 永井一正
I 横尾忠則、後藤一之、原田維夫
C 梶祐輔 CL 大和證券
*プッシュピン・スタジオ
(Push Pin Studio)
ミルトン・グレーザー、シーモア・クワスト、エドワード・ソレルにより1954年に設立されたデザイン事務所。イラストレーションを中心にしたグラフィックデザインは世界中に大きな影響を与えた。
深夜の晩餐
深夜の晩餐
2006
A 横尾忠則
1167×909mm キャンバスにアクリル
オノ・ヨーコ氏蔵
*植松国臣(うえまつ・くにおみ)
グラフィックデザイナー、アートディレクター。1927~2006年。伊勢丹宣伝課を経て、60~62年日本デザインセンター在籍。
LIFE2007 LIFE2010
右 LIFE2007
左 LIFE2010
D・I 永井一正
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デザインのポリローグ 日本デザインセンターの50年(誠文堂新光社)

この記事は弊社の創立50年を記念して発売された書籍「デザインのポリローグ日本デザインセンターの50年」からの再録です。

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