美意識の祭典へ

美意識の祭典へ

東京五輪という魔法の言葉が生きた言葉として未来に蘇る。しかも二〇二〇年という日本の今後を展望する時期への再来は大きな励みである。戦後六十数年「もの」を作り続けてきた日本は、「価値」を生み出す成熟国への転換期にある。経済成長の力を高らかに謳歌するのが六四年大会だとするなら、二〇二〇年の東京五輪は、成熟を経て世界へ新たな価値を供する美意識の祭典へと進化させなくてはいけない。
招致活動で言い交わされていた「おもてなし」は決して方便ではない。アジアの東端に千数百年の歴史と伝統、テクノロジーと文化を携えた国がある。成熟期を迎えたその国がホスピタリティの本領を発揮するなら、今後の世界に必要な深慮と敬虔さ、そして感覚の平和への覚醒を、五輪の感動と共に呼び起こすことができるはずだ。
かつて工業立国のかけ声のもと、日本の国土は「工場」と化した。しかし本州の両端が新幹線で結ばれた頃、このヴィジョンは終焉を迎えた。
国土の大半を山と緑に覆われ、多彩な海にも恵まれた列島は、自然の復元力が旺盛な温帯モンスーンである。この国土を、繊細・丁寧・緻密・簡潔な持ち前の感受性で掃除し直し、もてなしの技と心を介して、訪れるに値する場として再生させてみたい。
長野五輪の際には開会式・閉会式プログラムのデザインを担当し、素材やグラフィックを通して雪と氷の祭典を担う日本の情感を表現した。東京五輪はどうか。
シンボルマークや開会式の演出に心を砕くのも大事だが、空港に着いてから目的を達し、東京を後にするまで、あらゆる空間、あらゆる瞬間に美やもてなしを供する機会がある。街角のサインにも、伝達作法にも、入場チケット一枚にも。
日本への来訪者がいきいきと能動的に街や会場を歩き回ることができ、公共空間の質に感動を覚えるような、そんな場所に日本をデザインしなおす契機として、東京五輪を見つめてみたい。